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2015年8月9日 NHK-FM『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』

2015年8月9日 NHK-FM『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』

2015年8月9日(日)の午前0時~午前1時にNHK-FMで放送された番組の一部をテキスト化しています。
大瀧詠一さんへの想いが伝わる放送内容でした。
誤字脱字は、ご容赦くださいませ。

◎ 冒頭

♪ SHOW

達郎氏:

全国の皆さん、こんばんは。山下達郎です。
これからの1時間、この時間、NHK-FM、夏の特別番組と題しまして、『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』

これから深夜1時まで私、山下達郎がお届けしたいと思います。

私、NHKで一人で喋るのは、ほんとに久しぶりの事で、今を去ること30年以上前、1983年から86年の約3年間、サウンドストリートというNHKの番組でずっと一人喋りをしておりました。

以来、ほんとに、初めてじゃないですが、久しぶりの一人喋りであります。

NHKのスタジオというのは大きくてですね、ここに一人・・・なんとなくですね、ものすごく・・・広いんですよNHKのスタジオ。
ですのでですね、犬小屋の大きいところに、ほっぽり出された犬みたいになって・・・しておりますが。

夜中ですので、まぁ、まったりとやりたいと思いますが。

番組のタイトル『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』
シュガー・ベイブというのは、私が、山下達郎が今から40年前に、いわゆるミュージシャンとしてデビューした時に在籍していたグループであります。

1975年4月25日にアルバム「SONGS」でデビューを致しました。

この「SONGS」というアルバムは、たった1枚のシュガー・ベイブのアルバムでありまして。
約2年半ほどの活動で、このアルバムとシングル盤「DOWN TOWN」、これだけ世に出して後は解散してしまいました。

メンバーは、私、山下達郎の他に大貫妙子さん、今でも現役で活躍してらっしゃいますが。
一時期、伊藤銀次さんも在籍しておりました。

従いまして、私達のようなミュージシャんというのはレコードデビューをもってデビュー致しますので、私は今年でミュージシャとしてデビュー40周年を迎えることになりました。

デビュー40周年 = シュガー・ベイブも40周年であります。

このシュガー・ベイブのアルバム「SONGS」、40周年を迎えまして。
今まで2度ほどCDで再発されました。
1994年に再発しまして、2005年、30周年記念盤がリイシューされましたが。
今回40周年なので40th Anniversary 、40周年記念。
題しまして『40th Anniversary Ultimate Edition』
大層な名前でございます。
究極のSONGSというタイトルで、今週ですね発売になりました。

3度目のリイシューでございます。

ですので、今夜はこのシュガー・ベイブのアルバム「SONGS」の40周年記念アルバムについて色々とご紹介しながら、シュガー・ベイブについて、それから、私の40年のミュージシャン生活のうちの最初でございますので、最初の数年間のお話を聴いて頂きたいと思います。

よく考えてみますと、シュガー・ベイブについて、こうやって細かく語るのって、ほとんど無かったんですよね。
ですので、まぁいい機会ですので。
20年ぶり位ですかね、シュガー・ベイブについて、こうやって1時間もSONGSの特集なんて形で語るのは。

久しぶりでありますので、そうした部分も含めましてですね、想い出と(笑)、それから今でもシュガー・ベイブのレパートリーは私自身のライブでやっておりますのでですね、そういうような・・・私にとって決して、あのぉ・・・何て言うんでしょうかね、消えた過去じゃないので(笑)

今でも生きてる過去でございますので、そういうものも含めまして、いろいろとお聴きを頂きたいと思います。

頭、お聴きを頂きましたのは「SONGS」の1曲目に入っております「SHOW」という私の作品でございますが。

◎ DOWN TOWN

このアルバム、元々はアナログ盤でござますが。
A面、B面・・LPですね。
A面、B面でありましたが、今はCDになっておりますので全11トラック、一方通行でございますけれども。
旧アナログ盤のA面の2曲目に入っていた、この曲をシングルとして発売いたしました。

その後、たくさんのカバーを生みましてシュガー・ベイブの代表曲として、よく知られております。
これを2015年、今年の8月5日に発売になりましたシュガー・ベイブ「SONGS」の2015年リマスター 40th Anniversary Ultimate Edition リマスター・バージョンで、いい音でお聴きを頂きます。

♪ DOWN TOWN

◎色々と迷ったんですが 

達郎氏:

シュガー・ベイブの「SONGS」というアルバムは、元々はLPとしてアナログ盤として1975年4月25日に発売になりました。

以来、40年が経ちましたが、おかげ様で今まで一度も廃盤になったことがありません。
様々な形でずーっと発売され続けて参りまして。

アナログLPからCDの時代が訪れまして、1994年に最初のリマスターバージョンが発売されまして。
この時も随分、色々なところでプロモーションしましたが。

その後、10年前の2005年に大瀧詠一さんの手によって30周年記念盤、30th Anniversary Editionというのが発売になりました。

今回40周年なので、40周年記念盤ということになりましたが。
この「SONGS」というアルバムはナイアガラ・レーベル、大瀧詠一さんのプライベート・レーベルの第一弾として世に出ました。

大瀧詠一さん、皆さんご存知のように2013年12月30日に急逝されましてですね。
お亡くなりになってしまいました。

ですので、今回この40周年を「SONGS」が迎えるにあたって40周年記念で、またリイシューするかどうか、色々と迷ったんですが。
大瀧詠一さんが、もしご存命でしたら、たぶんやられたんじゃないかと、思います。

ナイアガラ・ムーンという大瀧詠一さんのナイアガラ・レーベルでの第一弾が発売されました。その40周年も、たぶんやったんじゃないかなと(笑)

もし、大瀧さんがご存命でしたら、どういう形でやったかなと、そういうようなものを考えつつですね、今回の40th Anniversary Ultimate Editionが、私が色々と考えて作りました。

◎リマスター 

達郎氏:

アナログLPをCDにする際にですね、リマスターという作業をします。
このアルバムは40年前のアルバムですので、当時のオーディオ技術で作られまして。

それが、まぁ、10年、20年、30年と経ちまして。
CD、アナログからデジタルになり、デジタルがまた、色々な技術力のアップでもって音質、色々なスペックが向上する中でですね、そのアナログ時代のダイナミックレンジと言いますが、音の拡がりとかですね、音圧、そうしたものですと、今のデジタルの、例えば新譜ですね、最新新譜・・・

ま、エグザイルとかそういうやつですが。
そういうようなものとですね、比べると、いわゆる聴き劣りがするというですね。
聴感的に聴き劣りがする。

それを補正するために考えられたのがデジタル・リマスターという作業でありまして。
具体的には、コンプレッサーとかリミッターとか、イコライザー、そうした付帯機器ですね、そういうもので現代のデジタル機器の聴感に、昔のアナログのものを、なるべく近づけていくという、そういう作業をリマスターと申します。

デジタル技術というのも、もう10年、20年経ちますと、どんどん、どんどん日進月歩で発達して参ります。

最近は、ハイレゾなんて言いましてですね、CDの44.1kHz・16bitというスペックが、今度は48KHz・24bit。
これが近い将来になりますと、もっと上がるんじゃないかと言われておりますが。
これをハイレゾと言います。

CDというのが、もうダウンロードとかストリーミングとかですね、そうした、いわゆるネットワークで音楽が提供されて、そういう時代にまた、移ってきております。

CDとかアナログの昔のLP,シングルをパッケージメディアと言いますが、もうパッケージがだんだん無くなってきて、そうしたダウンロード、ストリーミングになるんじゃないかと。

まだ判りませんが、日本だけは、まだパッケージが非常に強いアレですが。
世界的にはパッケージというのはだんだん、だんだん衰退してきて、そういうこう・・ストリーミング、ダウンロード・・・

いわゆるモノを持たないという、そういう時代になりつつあります。
そんな中でですね、こうしたリマスターというのを、どのくらい続けられるかというのがあります。

◎リミックスとリマスター 

達郎氏:

で、今回の「SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-」
最新リマスター、2015年リマスターの他にですね、今回2枚組のCDになっております。

もう一枚は、何かと言いますと、これはリミックス。

DISK-1がリマスター、リミックスがDISK-2。
それにボーナストラックが、ありったけ空き時間に、ぶっこんで全37トラックという、そういう2枚組の仕様となっております。

で、ちょっと待ってくれと。

リマスターとかリミックスとか言われても、一般のリスナーの皆さんは、それは何なんだというですね。

リマスターというのは先ほども申し上げましたが、1975年に製作されましたオリジナルのマスターテープ、2トラックのステレオですね・・・
レコーディングというのは、マルチトラックと言いまして、当時は16トラック、16チャンネルのテープレコーダーがあります。
チャンネルが16ありまして、そこにドラムとかギターとか、ピアノとか、そういうものをですね・・・歌とか、そういうものを別々に入れていきます。

それを最終的にバランスをとって、2トラックのいわゆるステレオ、我々が今日聴いてる2チャン・ステレオにですね、これをミックス・ダウンと言いますが。
そういう形で整えるわけですね。

この際にバランスをとって、リバーブといってエコーを入れて。
それからEQと言いましてですね、音を固くしたり甘くしたりしますが。
そういうようなものを、付帯機器を使ってですね、音を整えるわけですね。

これをミックスといいますが。
ミックス・ダウンといいますが。

それで出来上がったマスターテープを、当時、LP・・・アナログのビニールにですね溝を刻むという、そういうようなものにして市場に供給したわけでございますが。

それがデジタルになりまして、CDというデジタルメディアに、メディアが変わって行きますので、その時にアナログの2チャン、2トラックのテープをデジタルの2トラックに変えなきゃいけない。

これをADと言います。
俗にアナログ-デジタル変換と言いますが。

その際に、そうしたリマスターという作業をします。
従いましてですね、リマスターというのが、今、そういうCDがたくさんございますけれども。
基本的にはオリジナルの2ミックスをしておりますので、本質的なバランスとかそういうものは、あまり変わりません。

それに比まして、リミックスという作業、それはですね、例えばオリジナルのマスター2トラックが、もう劣化して聴くに耐えなくなる・・・まぁ、ハイ落ちとか、磁器デープですから、だんだん、だんだん劣化するわけですね。

ビデオテープが見えなくなるって、ああいうのと同じ。
VHSとかもう、今もう、全然見れませんし。
あとハードが無くなるとか、そいうのもありますが。

そういうような形でマスターテープが使用に耐えなくなる時に、一つの手段としてリミックス・・・オリジナルの、そのマルチトラック16トラックとか24トラックとかありますが、そこまで戻ってですね、それをもう1回やろうと。

ミックス・ダウンももう一回やるんですね。
それをリミックスと申します。

今回はSONGSのリマスター、すなわち何度も申し上げて、しつこくてすいません、こういう話は面倒臭いんです。
オリジナルの2トラックではなくて、オリジナルの元の16トラック・・・SONGSというアルバムは16トラックでレコーディングされました。

もともと16トラックの前に、8トラック、4トラックという時代もありますが、ちょうど1970年代は16トラックで。
その後アナログは24トラックになりまして、その後デジタルになりましてから、デジタルの24、デジタルの48・・

今はプロツールスでハードディスクレコーディングでございますが。
ハードディスクですので、もう理論的には100トラック、200トラック使い放題であります。
テープじゃなくなりましたので。

そういうレコーディング技術の発展に伴いましてですね、元の16トラックのテープをデジタルにトランスファーしまして、そこからもう一回ミックスダウンをやり直して、オリジナルマスターと同じようなものを作ろうと。

これがリミックスという作業でございます。

従いまして、まぁ、オリジナル・マスターと全く似て非なる、全然違うものも作れるわけですけれども。

◎リミックスとリマスターを入れた理由 

達郎氏:

今回、リミックスとリマスターと2つ入れた理由というのの、一番根本の理由はですね、特にリミックス、もう一回ミックス・ダウンをやろうと思い立った一番の理由は、先ほど申し上げました、この先CDが無くなって、いわゆるハイレゾという、より高いスペックのソースを使って音楽が供給される時に、こうした古い音源、SONGSのような40年も前の音源ですので・・・

CDのマスタ、44.1kHz・16bitのマスターしかないんです。
オリジナルマスターはもう劣化して聴けませんのでですね、アナログは。

従いまして、もうちょっとハイスペックなソースを作ろうとすると、どうしてもリミックスという手段に頼らざるを得ないという。

これから来るであろうストリーミングとかハイレゾとか、そういうメディアをにらみましてですね、もうちょっとこう・・ハイエンドなマスターを作りたいというのが今回リミックスを作った一番大きな理由なんですが。

作ってみると、結構良かったんですね。
それで・・・
なんですが、2015年の先ほどお聴きを頂きました「DOWN TOWN」のような、オリジナルマスターからリマスタリングをしたものもですね、2015年に作りましたら、これも結構いいんです。

甲乙つけがたいので、じゃ、まぁ、2枚一緒に出しちゃおう!
これが -40th Anniversary Ultimate Edition-と付けた一番大きな理由です。

今まで、シュガー・ベイブのSONGS、リミックス何回かありますが。
それはもう、ほんとにオリジナルマスターと全然違うもの、違うバランス、違うエコー、すなわち違う音楽になったんですが。

今回のリミックスはですね、あくまでオリジナルマスターに肉迫するという。
ですから、あまりSONGSに対して知識の無い方がお聴きになったら、どっちがリマスターで、どっちがリミックスとか、たぶんラジオ上では判別が付かないくらいに似ております。

ですが、これから先のそうしたハイエンド・オーディオの世界ですと、このリマスターバージョンというのが、威力を発揮してくるというですね。
これでようやく、向こう10年位のですねSONGSの生存の可能性が(笑)、出てきたという。

長くなって、すいませんが。
そんな製作過程をですね、想像しながらお聴きを頂けたらと思います。

◎すてきなメロディー 

シュガー・ベイブ、アルバムB面の2曲目に入っております「すてきなメロディー」
これは、私と大貫妙子さんのデュエットの曲であります。
このSONGSのアルバムを作る時に、デュエットが一曲あるといいなと、いう事で作りました。

この「すてきなメロディー」、実はオリジナルのSONGSに入っております「すてきなメロディー」ってのはですね、間奏のとこにですね、本来入るべきはずのカズーが入ってるんですが、カズーってわかりますかね・・・ま、いいや(笑)

持ってくればよかったな(笑)

カズーが入る予定だったんですけども、ミックスするときにエンジニアをやっておりました大瀧詠一さんが、誤って消してしまったんですね(笑)
オリジナルのマスターにカズーが入ってないんですが、それを今回のリミックス、復活させましてですね。

他のとこからカズーだけ持ってきまして、復活させることが出来ました。
40年ぶりに念願のカズー入りの素敵なメロディーが作ることができました。

リミックスバージョンのシュガー・ベイブ「すてきなメロディー」

♪ すてきなメロディー

◎シュガー・ベイブに関して 

達郎氏:

ほんとうに、あのぉ・・・シュガー・ベイブに関して、こういう形で一人で喋ったことっていうのは、ほんとに何十年ぶりでありまして。

まさか、40年経ってシュガー・ベイブの話をこうしてNHKで全国放送でする事になるとはですね夢にも思いませんでしたが。

それもまぁ、ほんとに、このSONGSという一枚のアルバムをですね、支持して下さったリスナーの皆様のお陰でございます。

そもそもシュガー・ベイブというバンドはですね、1973年に結成されました。
私、二十歳の時でございますが。

オリジナル・メンバー5人でありまして。

私と大貫妙子さん。
大貫妙子さんは19歳でございました、その当時。
ギターが村松邦男さん。
ベースが鰐川己久男(わにかわ きくお)さん
ドラムが野口明彦さん、というこれがオリジナル・メンバーですが。

このメンバーで一年半ほどやりまして、75年にドラムとベースを変えまして。
ベースが寺尾次郎さん。
ドラムが上原裕さん。

75年にデビューして、76年には解散しましたので・・・
73年からですから、4,5,6・・・3年弱の活動でございました。

1970年代の頭というのは、政治の季節・・・70年安保の時代でございます。
あとは音楽の季節・・・
1960年代から70年代っていうのは文化の最前先端が音楽でありました。

それは、まぁ、音楽というものの、レコードという音楽を記録する手段ですね。
レコードというのが1930年代くらいから作られ始めましたが。
それが、そうした録音技術のテクノロジーっていうのが、60年代に革命的に、飛躍的に発展しまして。

それまでは、演奏の記録と言いましょうかね、そうしたものだったんですが。
レコードの中の独自の音世界というか、そういうものを探求する動きが、ものすごく発達しまして。

音楽というのは・・色んな文化があります、絵画、演劇、文学、そういうのがありますが、音楽が何よりも文化の最先端でありました時代で。

そこに1970年の、70年安保という政治の騒乱がくっつきましてですね、たくさんのドロップアウトが生まれました。
そのドロップアウトした人達が、ほとんど音楽の世界に入り込んできたという。

そのお陰で、それまでの日本の音楽には無かったムーブメントというのが生まれました。
それが日本のロック&フォーク、日本語で歌われるロック&フォーク・・
初めは日本語のロック&フォークと言われていましたものが、いつしかニューミュージックという言葉に変わりまして、今はJポップなんて言われてますが。

そうしたものの、一番とっかかりの時代でありました。

私なんかも、大貫妙子さんも、そうした音楽の時代に育ちましたので、本来はミュージシャンになるつもり、無かったんですが、音楽が一番力持ってましたので、それに関わっているうちにミュージシャンの道を歩むようになったという・・・
そういう歴史でございます。

もともと四谷にロック喫茶がありまして。
今はジャズ喫茶になっておりますが。
ロック喫茶がありまして、そこに集っていた仲間がおりましてですね。

大貫妙子さんを、ちょうど何かの形でデビューさせようという、そういうようなプロジェクトの中に私も偶然に入り込んで行きまして。
そこでバンドを作ろうという事になりまして。

僕自身はコーラスがとっても好きだったものですから、コーラスやるには女性がいた方が、ものすごくレンジが拡がりますのでですね、大貫さん誘って、バンドやらないかと。
基本的に双頭バンド、大貫さんと僕が基本的に曲を書いて、歌うという。

非常に、当時としては珍しいパターンでございました。
で、まあドラム、ベース、ギター入れまして。

ギターの村松邦男さんとベースの鰐川己久男さんは、僕の友達でありまして。
ドラムの野口君は、そのロック喫茶に出入りしていた人で、この人、元々はカメラマンになろうと思ってたんですが。
何故かドラマーになってしまったという。

みんな、交通事故でミュージシャンになったという。
僕みたいに、限りません。
当時は皆、交通事故でミュージシャンになる人ばっかりで(笑)

逆に言いますと、そういう・・・今みたいにですね、ミュージシャンになりたいとか、そういう人達じゃないので。
本来そういう、ミュージシャンになるべくしてなった人間でないが故に、一般的にミュージシャンになろうとしてる人間にない発想って言いましょうかですね・・・
特異な発想が出たので、70年の日本のフォークとロックというのは非常に特異な発展の仕方を遂げました。

今でも現役でやってる人が多いのはですね、そういうことが、すごく大きなファクターになっていると考えられます。
我々は、そういう意味では日本のフォークとロックというムーブメントでは第二世代に所属します。

第一世代は「はっぴいえんど」の世代でありますが。
「はっぴいえんど」の人達は、大瀧詠一さんは僕より5つ上、細野晴臣さんは僕より6つ上という世代であります。

その次の第二世代というのは松任谷由実さんとかですね、私とか・・・
ユーミンは僕より一個下。
中島みゆきさんは、一個上、というですね。
1950年代の頭くらいのベビーブームの中でちょっと一段落した世代という、第二世代に属しますが。
我々のメンバーは全員その世代でバンドを始めました。

◎何代か前はどっかで親戚だったんじゃないかと

達郎氏:

初めは、ぜんぜん全く・・・・要するにバンドを作るったって、それ自己申告のバンドですから、プロデビューするなんて、別に役所で登録するわけじゃありませんからんですね。
仕事なんか、そんなに無かったんですが。

元々私が、中学の時からアマチュアバンドやっておりまして、そのアマチュアバンドの友達と大学に入る時にですね、なんか記念にして残そうという形で、自主制作のレコードを作りました。

コーラスが好きだったので、先ほども申し上げましたが。
ビーチ・ボーイズが好きだったので、自主制作のアルバム、片面がビーチ・ボーイズのコピーでやっておりました。

それが、いろいろな形で、ひとの手に届きまして。
そんなところに、大瀧詠一さんの目に留まりましてですね。

大瀧詠一さん、丁度「はっぴいえんど」を解散したところで、自分のソロプロジェクトを始めようというところでありました。
1973年の話です。

1973年の9月に「はっぴいえんど」の解散コンサートというのがありまして。
その時に細野晴臣さんは「キャラメル・ママ」という・・・後にスタジオ・ミュージシャンで一世を風靡しますが、「キャラメル・ママ」というプロジェクトで。

大瀧詠一さんは、「ココナツ・バンク」という伊藤銀次さんのバンドを率いてソロ・プロジェクトをやったんですが。
そのプロジェクトのコーラス担当を僕がやることになりました。

そこから大瀧詠一さんと、仲良くなりまして。
大瀧詠一さんは、東北の江刺の出身でありまして。
僕より、五つ上なんですが、一人っ子で。
僕も一人っ子で、僕は母親が仙台でありますので。

今から考えますと、大瀧さんと僕は五つ違いますが、声もよく似ておりますしですね。
何代か前はどっかで親戚だったんじゃないかと、そういうような事を思います。

どっちも、一人っ子ですので、まぁ大瀧さんにとっては弟みたいなもんで、私にとっては兄みたいなもので。
一昨年、ほんとに突然に急逝されましたが。

大瀧さんと、そうした形で出会いまして。
彼は、その時に「ナイアガラ」という自分のレーベルを作り始めた時代でありまして。
それの第一弾として、僕のシュガー・ベイブの「SONGS」というのがリリースされまして。

この「SONGS」というアルバムは、プロデュースは大瀧さんと私の共同プロジェクトですが、エンジニアが・・・いわゆるレコーディング・ミキサーですね、を全面的に大瀧詠一さんが担当しております。

当時は、大瀧さんは笛吹銅次というクレジットで、なんて言いましょうか・・エンジニアの道を志して。
マルチですね。

そうしたバンドのデビュー作を、レーベルのオーナーがですねミキサーをやるというのも、しかも、ご本人ミュージシャンでございますからですね。
そういうの珍しいパターンなんですが。

それが、丁度その数年前に「はっぴいえんど」のラストアルバムで、西海岸へ行きましてですね。
その経験が非常に衝撃的で。
大瀧さん、自分でスタジオ持ちたいと・・・考えで、東京の郊外の福生に自分のスタジオを作りまして、そこでレコーディングする予定だったんですけど、工事が間に合わなくて、結局東京でやったんですが(笑)

でもミキサーは全部大瀧さんで、ミックス・ダウンも大瀧さんがやりまして。

◎非常にストレンジな感覚

達郎氏:

当時はまだ、なんて言いましょうかですね・・・メジャーなレコード・カンパニーでこうしたロックのレコードっていうのを、きちっと録音できるようなエンジニアは、ほとんどいませんでですね。

まぁ、いわゆる、その前は日本の音楽というのは、イコール歌謡曲、昭和歌謡と呼ばれるですね、歌謡曲でしたので。
それは全くロックミュージックの録音方法とは全然違うノウハウで展開されておりまして。

ほんの数年前の60年代のグループサウンズというムーブがありましたが、その時のレコードは、ほんとに今聴きますと、全然ロックのレコードの音をしてないんですが。
それは、仕方がない。
でも歌謡曲の、そうしたエンジニアがやっておりましたので。

ですから、もし、メジャーなカンパニーで行きましてですね、我々がレコーディングしたら、そうしたハウス・エンジニアがレコーディングを担当したとしましたら、たぶん「SONGS」という、このシュガー・ベイブのアルバムは40年間も、こうやって生き長らえてはいなかったんですが。

たまたま、エレックという非常にインディなですね、当時は吉田拓郎さんとか、泉谷しげるさんとか、そういう方々が所属しておりましたが。
そうした日本のインディの草分けみたいなレコード会社がありまして。
実はこの「SONGS」が出てから三ヶ月でエレックは倒産しましてですね。
このアルバムの印税は一銭ももらえなかったんですが。

でも、そこの・・・非常にあのぉ・・・こ汚い新宿のスタジオがありまして。
ほんとにビルの2階の、練習スタジオに毛が生えたようなとこなんですが。

そこと大瀧詠一さんの福生のスタジオ、そうした、ほんとにインディなスタジオで録ったお陰で、ものすごくインディペンデントな音をしてるんですね。
ですので、この時代、こうした録音環境で作られた、こうしたポップなレコードっていうのが、ほとんど無かったので。

それは非常に、こう・・・音の特色となって。
これは結果論ですよ(笑)
その時は、もうどうしてこんな環境でレコーディングしなきゃなんないんだって思いましたが。
今考えてみますと、それが非常にプラスに働いたというですね(笑)

人間何が危機に転じて、何がアレになるか判らないんですが(笑)

そんなわけでナイアガラ・レーベルの第一弾という形で、この「SONGS」というアルバムが1975年に出ました。
それが、まぁ、40年経ってですね、こんな-40th Anniversary Edition-なんて、そんな形で、また説明してるんですから、非常にストレンジな感覚が致します。

◎ボーナストラック 

達郎氏:

で、先ほど申し上げましたみたいに、何度かリマスター再発をされておりまして。
その度にですね、リマスターってのは、だいたいボーナストラックといいましてですね、オリジナルのトラック以外の、ま、オルタネートなですね別バージョンとかですね・・・
あとはライブバージョンとか、カラオケとか・・・

そんなようなものを入れて、ま、リスナーのひとに喜んでもらおうと。
そういうようなものがあるんですが。
ボーナストラック。

94年の最初のリマスター盤、それから2005年の-30th Anniversary Edition-、どちらもボーナス・トラックが入ってるんですけども、また40周年記念出すんでしたら、今までのボーナス・トラックは全部クリアして、全部新しくしようと。

といって始めたはいいんですが、なかなかですね、何度も申しますようにインディなバンドですのでですね、全然売れなかったバンドですので。
例えば、ちゃんとしたライブとか、一個もないんです。

こういうラインアウトとかですね、オーディエンスでカセットデンスケでワンポイントで録ったとか、そんなばっかしかない!
無いんですが。

ま、そんなような中で比較的出来のいいヤツを集めて、ライブバージョン。
そのほかには、まぁ、オリジナル・カラオケ。
カラオケ、昔から作ってみたかったんですけども、昔は、そんなカラオケなんか録らしてもらえませんでしたし。

なんてったって、スタジオ時間が制約が、すごく多いので。
そんな中でリミックスどうせするんだから、カラオケも作ろうという。

そういうような形でライブバージョン、カラオケバージョン、別バージョン、色々なものを網羅しましてボーナス・トラック、全15トラック。

本チャンが11トラックのリマスター、リミックスで22。
プラス15で全37トラックという・・・ボリュームでございます。
ボーナストラックせっかく入れてるので、1曲お聴きを頂きましょう。

シュガー・ベイブの解散ライブというのがありまして。
ここのライブ、これも2チャン1発録りですので、バランス最低なんですけどもですね。
ライブソースってのは、これしかないので。
できるだけリマスターで補正してボーナス・トラックとして収録しています。

シュガー・ベイブのライブバージョン、お馴染みの「パレード」

♪  パレード(Live)

◎ガレージポップの元祖 

達郎氏:

今お聴きを頂きました「パレード」は、1976年の4月1日ですので、私23歳の声でございます。
もう、放り投げるほうな歌い方と言いましょうかですね・・・

シュガー・ベイブというバンドは、おかげ様で今でも名前が残っておるんですけども。
始めた当時というか、この「SONGS」出した当時はですね、ほんと日本のロックってのは全く商業的に成立しませんで。

売上・・・エレックレコードという・・・ナイアガラ・レーベルを出したレコード会社なんですけど、とても有名なレコード会社なんですが。

その三ヶ月後に倒産しましてですね。
何枚売れたかとかも判らないですね。

一節によると7000枚と言われておりますが。
だいたい、そんなもんだったんです。みんな、この頃は。
2万売れたら、大ヒットみたいな、そういう時代ですから、今の100万だの200万だの、90年代みたいな時代と、全然時代が違いますのでですね。

本当にシュガー・ベイブというバンドは、今ですら名前が残っていますが、あの時代、1975-6年の時代っていうのはですね、日本のロック黎明期でございますが。

いわゆる今でもそうですが、ロック・ミュージックっていうのは、いわゆるパーティミュージックですね。
アメリカの音楽っていうのは、ほとんどは、まずダンスミュージックから始まって、それが鑑賞音楽としての質を持った時に、それが歴史に残るという。

ベニー・グッドマン、グレン・ミラーからマイケル・ジャクソンまで全部そうですが。
ま、マイケル・ジャクソンはその逆ですが。
また、ダンスミュージックに回帰していくという、アメリカ音楽の今の現時点の・・・象徴としてのマイケル・ジャクソンみたいな・・・

そんな話は、今日は洋楽の番組ではないので申し上げませんが。

当時のロックといいますと、どちらかというとノル音楽、踊れる音楽・・
そうしたものが、ロックの主流でありまして。
そんな中でシュガー・ベイブというのは、非常に特異な、言ってみればオタクな音楽を志向していたバンドでございます。

あとは綺麗なメロディーを志向してた音楽でありますので。
言ってみれば、ミドル・オブ・ザロードなんですが。
それを非常にインディな環境で展開した・・・ガレージポップの元祖って、自分では言ってますが。

そうした質の音楽でありました。

◎人生で無駄なことはないと 

達郎氏:

従いまして、演奏する場所というのが、まだライブハウスというようなものが、黎明期でありましたので。
その前は、ジャズ喫茶とかですね、クラブ、ナイトクラブ、そういうような所しか演奏の場っていうのは、ロックではありません。

あとディスコですね。
でもディスコティークで、今みたいなレコードじゃなくて生演奏のディスコというのは・・
そういうところは楽器一式持っていないとですね。
アンプにドラムにベースに・・ボーカルアンプ、エコー・チェンバー
楽器を一式そろえていないと、そういう仕事が出来なかったんです。

我々みたいな食えないアングラでインディなロックグループというのは、ほんとにライブハウスが出来てくるまでは演奏の場というのは、なかなか確保できなかったので。

そういうとこでないと、どういう事になるかというと、野外フェスとか学園祭なんですね。
学園祭ですと、ま、自治会とかそういうとこがお金持ってますので、ギャラも払ってくれるんで。

そういうとこへ行きますと、対バンなわけですね。
3つ、4つ、5つバンドがありまして、1バンド40分、30分、そういうような出演時間で演奏しますとですね、ま、平たく言って喧嘩になるわけです。
どっちがウケるか、とかですね。

我々は、そうしたウケるとか考えてやってこなかったので。
どちらかというと、大貫さんも私も洋楽一辺倒の人間で、メンバーもみんなそうで。
洋楽しか聴いてこなかった人間が日本語の歌詞で音楽を作って、世の中出てったら、ヤジられたというですね。

なにしろウケない、そういうとこ、行くと全然。

ところがそのライブハウスというのが、今でもありますけどロフトとかジロキチとか、東京でもそうですが、今でもライブハウスって、今でもありますが。
そうしたライブハウスという小さな場ですと、60人とか70人くらいのキャパのですねライブハウスですと、最大限の動員を誇るというですね。

で、フェス行くと、ウケない。

ライブハウスだと熱狂的なカルトな人気があると、このアンバランスっていうのが、非常に自分たちにはストレンジに思えまして。

でもまぁ、そういうこう・・・ちょっとこう、何ていうのかなぁ・・・
あの・・アンバランスなものにものすごく、こう・・・20代の頭でしたから、ナイーブなですね精神が・・・どうすればいいのかって、こう・・そういう迷いが常にあったバンド時代でありましたが。

それのおかげで、ソロになってから自分はどういう音楽をやるべきなのか・・・
妙にだからあの時代、そうした風俗的発散といいましょうか、ノッてる~?とか、そういう音楽じゃないので、良かったなという。

真摯に音楽のやっぱりスタンス見つめることが出来たなという、そういうような・・・
ま、何でも世の中で、人生で無駄なことはないと。
そういうような気持で40年、あっという間に経ってしまいました。

◎ベストヒット&ベストソング

達郎氏:

人によってはですね、バンドから始まってソロになったら、もうバンドの曲はやりたくなという、今でもたくさんそういう方、いらっしゃいます。

バンド時代の曲は、絶対にやらないとかね、封印とかね。
僕、全然そんなことなくて(笑)
今でもシュガー・ベイブの曲は頻繁にライブで演奏しております。

色々な理由がありまして、21世紀入ってから、しばらくライブ活動が出来なかったんですけど、2008年にライブ活動再開しまして、ようやく8年経ちました。
再開して以来、非常にコンスタントにシュガー・ベイブの曲がライブで演奏しております。

それはやっぱり自分の・・シュガー・ベイブで作っていた曲が、別に自分が、なんか作りたくなかったとかですね、そういう曲じゃなくて。

ま、よくありますでしょ、ベストヒット、その人にとっての最高のヒットが自分の最高の音楽じゃない。
そういう発言をする方もいらっしゃいます。

「あれは、本当はオレの本意じゃなかった」とか「あんな曲でヒットはしなかった」と。
僕、そんな事ひとつも無くて(笑)

例えば僕の人生の最大のヒットは「クリスマス・イブ」ですが、「クリスマス・イブ」って曲は自分の全作品の中でも、全部で300曲近く作ってきましたが。
そんな中でも作詞・作曲・編曲・演奏・歌唱・・・プロデュース、そうしたものを総合的に考えて一番よく出来た何曲かのうちの一曲なので。

僕にとってはベストヒットがベストソングなので。
そってもそれは幸せなミュージシャン人生だと思ってますが。

「SONGS」も同様で。
「SONGS」のアルバム、最初は色々と不満もあったんですけど、今聴きますとですね、非常にこう偶然とはいえ、幸運な環境で作ることが出来たので、今でも歴史の試練に耐えると、そういうような事を思っております。

作った曲に関しては、全くだから何の後悔もしておりませんし、今でも演って楽しい曲がたくさんございます。

せっかく今日は、特番なので。
最近のライブバージョンで演ってるシュガー・ベイブの曲をお聴きを頂きたいと思います。
ただし、ちゃんとしたミックスではございません。

PAのアウトで、PAのラインアウトで入っておりますので、オーディエンスが全く入っていないので、なんか練習スタジオでやってるような演奏に聴こえるかもしれませんが。

そこのへんは太く鷹揚に、すいません。

2012年4月22日、青森市文化会館
ここでやった、この演奏なかなか好きなので。
今日はこれをお聴きを頂きます。

シュガー・ベイブ時代のレパートリー「今日はなんだか」

♪ 今日はなんだか(live)

先ほどのパレードと聴き比べて頂きますとですね、少しは人間が丸くなった声をしておりますね。

◎ライブ 

達郎氏:

再三申し上げておりますように、シュガー・ベイブの「SONGS」の40周年を迎えたということで、私のミュージシャンとしてのキャリアも今年で40周年を迎えることになりました。

デビュー40周年。

ま、長いことやってきましたがですね。
今年もライブやります。
今年は40周年ですので、たくさんライブをやろうと思いまして。

35都市、64公演。
10月9日に千葉県の市川で、初日やりまして、来年の4月の沖縄まで、64公演。
2011年くらいに64公演、1回やりましたが。
最近、たくさんやっております。

80年代の30代よりも、ぜんぜんライブの本数が多いというですね(笑)
ま、私より多い人、たくさんいますから、まだ。

64本なんて、別にそれほど大したことじゃありませんが。
まだ100本やってる人とかいますからね、私より年上で。
どうってこと無いんですけど。

それでも一生懸命、北は北海道から南は沖縄までですね。
今年もライブ、伺いますので、ひとつよろしくお願いします。

今年はそんなわけでシュガー・ベイブ出しましたので、シュガー・ベイブの楽曲、またやりたいなと思っております。
あの時代の曲は、やっているとですね、ほんとにあの時代のライブハウスの光景がフラッシュバックしてくるので(笑)

おもしろいもので、40年やっておりますと、長いような気もしますし、短いような気もしますね。
私に限らず、皆さんそうだと思いますが。

ただ非常に幸運なのは、何時の時代もですね、それほど別に何かをやらされてきたとかですね、イヤな事を無理やりやらされてきたとか、そういう事ではないので。
あくまで、いつも自分の好きな事をやらせて頂いて、きましたので。

90年代の中頃とか、2000年代とか、活動したくてもなかなか出来なかった時代とか、そういうのもございますけれども。
基本的には、だいたい自分の思い通りに、できてきましたので。
ま、こんなものかなと。

あと何年やれるか、わかりませんけれど。
この調子で、続けていければなと思っております。

2008年にライブ活動を再開してからは、ライブを軸足に、ライブを主体に活動しておりますのでですね。
ほんとは、今年は40周年なので、何かミニアルバムみたいなの出そうかなと思ったんですが、ちょっとひとに曲を書いたり、色々と掛け持ちの仕事が多いので。
すいませんが、来年は、そういう作品を出せればなと思っております。

だいたい、ここんとこずっと6年に1枚とか、それくらいのペースでアルバム出しておりますので、またそろそろ6年目くらいになりますので、またちょっと、アレしようかななんて事を考えております。

◎実を申しまして 

達郎氏:

実を申しましたら、今回の「SONGS」の40周年記念、40th Anniversary Edition-ですが、40周年記念盤のというが果たしてほんとに必要なのかなぁという事で、随分考えたんですが。

一番の原因は、冒頭にも申し上げましたみたいに、大瀧さんがお亡くなりになりましたのでですね。
大瀧さんのナイアガラという発想といいましょうかですね、思想といいましょうか(笑)

意思ですね。

そうしたものを僕なりに、僕の範囲で継げるところは継いでいこうという。
特にアルバム、シュガー・ベイブ「SONGS」、そして「ナイアガラ・ムーン」という、この75年の活動に関しては、僕が大瀧さんとほとんど、いつも毎日一緒に居て、やってましたので、いってみれば音楽のブレインでありますので。

その部分は、僕がこの先を代弁して行こうかなと、いう具合に考えております。

この「SONGS」というアルバムで一番大瀧詠一さんのカラーが出ているのは「雨は手のひらにいっぱい」という曲でございまして。
「雨は手のひらにいっぱい」、これは初めは何かサザンポップと言いましょうかですね、B.J.トーマス、なんかそういうような感じで作っていたんですが。

大瀧さんのアイデアで、これフィレスというかウォール・オブ・サウンドにしようと。
フィル・スぺクター風に作ってみようじゃないかと。

普通バンドですと、そういう事やんないんですがですね(笑)
ですから、このアルバムはバンドのアルバムなんですが、非常に作家的といいましょうか、あとは編曲家的といいましょうか。

多彩な曲調と、大貫さんの曲、僕の曲・・・そうした曲調の多彩さ。
そういう意味では、バンドの作品をある意味でちょっと、こう・・逸脱してる、良く言えば超えてる。

悪く言うと逸脱してるという(笑)

セッションの途中でドラマーを変えたりしまして、その変えたドラマーがあとのメンバーになりますから。
そういうような過渡期としての色合いもございますが、それが結果的に、更にこのアルバムのサウンドを多彩に繰り広げている要因になっておりますが。

僕はこの「雨は手のひらにいっぱい」ってのは「SONGS」のアルバムのベストテイクだと思っております。

♪ 雨は手のひらにいっぱい

◎エンディング 

達郎氏:

お送り致して参りましたMHK-FM夏の特別番組『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』
8月5日に発売になりましたシュガー・ベイブ「SONGS-40th Anniversary Ultimate Edition-」をお聴きを頂きなら、やってまいりました。

そろそろお別れの時間となりました。

1時間でどれだけお伝えできたか、心もとないですけれども(笑)
もう40年経ちましたので、なるべくこう後ろ向きにならないようにですね、懐古主義にならないように、考古学的な要素を入れてですね、なるべく心がけたつもりですが。

NHKこれ、夜中にですね「SONGS」の特集、ひとり喋りでやるとは夢にも思ってなかったのでですね(笑)だいじょうぶかなという感じですけれども(笑)

あれから40年経ちました。
22だった自分も62になりましてですね。

よもや、昔はドント・トラスト・オーバー・サーティーなんて時代がありました。
果たして30歳から先、どうなっているか、そんな時代で・・とんでもございません。

ま、でもあの時代よりも自分は、何かこう・・・あんまりいい表現じゃないですけど、幸せかなと。
そういう感じがするだけでも、自分は良かったかなと思います。

この「SONGS」40年前に作った時から、自分が思ってることは、ただひとつ。
音楽を・・古びない音楽、時代を写さない音楽、そういうようなものが、自分にとっての目標で、いつ出来たか判んない、作られたか判んない音楽っていうのがあれば、それがいつまでも古びないだろうと、そういうなんか変なことを考えて、今でもやっております。

そういう意味では全くスタンスは変わっていないので。

これからでも、そういう考え方ですと、まだできるかなという感じを致します。
さすがに50周年記念盤は作らないと思いますがですね。
生きてたら判りませんが、72ですからね、そん時はね。

でも、ま・・私の目指してた音楽は、別にその人の心をえぐるとかですね、問題意識を提起するとか、そういうものじゃなくて、ミドルオブ・ザ・ロードといわれる、いわゆるポップ・ミュージックでございます。

ポップ・ミュージックは基本的に人間が生きること、人間の生のですね、肯定・・・と言いましょうか、人の生きることに奉仕する音楽がポップ・ミュージックだっていうのが僕の主義なんですよ。
考え方なので、これからはそういう意味では人の幸せに奉仕できるような音楽を作っていければなと思っております。

まだまだ、もうちょっとやりたい事があったりするので、もう少し作品が出来る・・・と思っておりますし。
ライブは体の続く限り、続けていきたいと思っております。
おかげ様で、まだ・・なんとか声が続いてる・・
体力的にもまだ続いてるので。
もうちょっと、やれればなと思います。

というわけで、1時間ご清聴ありがとうございました。
『山下達郎、シュガー・ベイブを語る』
この時間のお相手、私、山下達郎でした。

それでは、皆さんよい休日を、おやすみなさい。

~END~

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