NHK-FM『小林克也の音楽グラフィティ』ゲスト:山下達郎 2018年8月14日
2018年8月14日にオンエアされた番組です。
小林克也さんはの語り口は、お変わりありませんね~。
達郎さん、いつにも増して早口でちょっとわかりづらいところも(^^)
そして、熱く語っておられました。
ということで、このブログではNHK-FM『小林克也の音楽グラフィティ、ゲスト:山下達郎』の一部をテキスト化しています。
誤字脱字は、ご容赦くださいませ。
◎ 冒頭
小林克也さん:
こんばんは。小林克也です。
昨日から5夜連続でお送りしていますが、今日は2番目の夜ということで・・
何のために、この方を迎えているかっていう。
「ディスコ」っていう切り口で、えぇ・・・何十年に一回話すゲストを迎えるというわけですけど(笑)
皆さん聞いてて、なんでこの方がディスコなんだっていうのがあると思うんですが。
小林克也からの見方からすると、実はディスコととは深いつながりがある、ということをですね、僕が説明した方がいいと思いますので。
ゲストを迎えたいと思います。
山下達郎さんです。
達郎氏:
こんばんは。
ご無沙汰しております。
小林克也さん:
ご無沙汰しています。
達郎氏:
おめでとうございます。
小林克也さん:
あぁ、どうも、ありがとうございます。
77になりました。
達郎氏:
益々お元気で。
小林克也さん:
はい。
あなたの年は聞きません(笑)
達郎氏:
にははは(笑)
小林克也さん:
(笑)
達郎氏:
私も年金受給者になりました(笑)
小林克也さん:
あぁ、そうですか(笑)
はい、ええとね・・ディスコっていう切り口なんですけどね。
僕はディスコテックで・・
「ディスコテック」って言い方も古いですけど。
ディスコのレコードの回し方・・も、やってたんですよ。
仕事をしてたんで。
達郎氏:
はい。
小林克也さん:
そいで、ディスコっていうのは、当時は音楽の業界から軽んじられていて・・
「どうせ、あんなものは消えるんだ」ってことを言われてたんで。
とんでもない!
ディスコはずーっと、ま、言い方が悪かったんだと思うんですよ。
ダンス音楽だったわけですよね。
達郎氏:
そうですね。
小林克也さん:
消えるどころか、っていう・・
その中には、もう音楽を変えるような人たちも出てくるわけですけど。
今日グラフティだから、振り返りますけれども。
1969年っていうのは、ウッドストックなんかの年だったじゃないですか。
達郎氏:
はい。
小林克也さん:
それで、その陰で・・
陰でって本人たちは思わないと思うんですが。
パリの社交サークルで、レコードをかけて盛り上がると。
で、みんなそのための服装をしてくる、ちょっと正装っぽい服装をしてきて、レコードを聴いて踊るっていうような、クラブができて。
それを、レコードをかけるからっていうんで「ディスコテック」って言い始めたんです。
達郎氏:
それでディスコテック
小林克也さん:
そうそう。
で、その第1号のヒットっていうのがですね、マヌ・ディバンゴの「Soul Makossa」というご存じのあの曲が、なんかサッカーでカメルーンを応援する歌だったらしいっていうのを、さっき僕聞いたばっかりなんで(笑)
達郎氏:
ははは(笑)
小林克也さん:
いやいや、でもね、あの・・
僕は、すっごい親しんでいて・・
マイケルジャクソンがスリラーの1曲目でこれをアドリブで使ってるんですよ。
最近ではリアーナが使ったりしてて。
これは、彼らが財産だと思ってるっていう・・
そういう意味あるスタートをしたんですけど。
それがニューヨークだとか大都市にひろがって。
ニューヨークではエレクトリック・シャークスっていう、でっかい体育館みたいなところで、ここでショーアップするようになって・・
そいで、それを、端折って言うと、日本で日本の実業家が真似て「MUGEN」を作って、それの脇にレコードでやるディスコテック「BYBLOS」っていうのを作って。
そこがまぁ、発祥の地だと。
それで、ずーっと・・70年代になるとディスコが衰えるどころか・・
中には、馬鹿にされるっていうとおかしいですけど、音楽としてうるさい人たちが、ロック経由で来た人たちは、
♪ ~ザッツ・ザ・ウェイ♪アヘー♪アヘー♪ アイ・ライク~
あの繰り返しが、何が面白いんだ!
あれがアメリカの1位だったこともあって、それで次の1位が
♪ ~フライ・ロビン・フライ~
これの繰り返し。
何だこれ、正体がないじゃないかって。
ところが、ディスコは頭のいい、音楽を自分の頭で鳴らせるような人が、ディスコは音楽だって、簡単だって、いろんなものをやりたいとか。
アメリカなんかではモダンジャズでやっていた尊敬するような音楽をやっていた人が、お金のために、名前を変えたりしてディスコをやっていたとか。
いろんなミュージシャンをインボルブしてくるわけですよね。
それで、この話はどこへ行くかっていうと、実は日本でバンプみたいな、お尻とお尻をぶつける、で、これはあの・・ファンキーなんですよ。
っていうのは、遊びながら踊るんでね。
踊りの上手い人のBPMが遅いじゃないですか。
BPMが速くなるとバスストップみたいなのが流行って。
みんな集団で踊ると、踊りの上手い人がダサいな、ダサいななんて言ってるうちに、また・・・
それから速くなったり、遅くなったりして、繰り返していて。
日本という国でみると、東京はそういうような発展をして。
ところが大阪に、70年代にアメリカ村っていうのができて。
大阪の若者の意識が変わるんですよ。
そいで大阪のディスコが、いろいろできて。
東京の人間と、大阪の人間っていうのはライバル同士がから、大阪の人たちにとっては、「東京がなんだよ!」って。
「アメリカだって俺達の方が先にとってるわ」ってみたいなのがあって。
大阪で、ものすごい現象があって。
そのころ僕は何をやっていたかというと、ラジオの番組なんかやる傍ら、ディスコにレコード会社がプロモーションを作って、3社まとめて僕が作ってたという。
そのディスクジョッキーの、面白くアメリカのラジオみたいにしようみたいな。
そしたら、RCAの吉村君っていう、山下達郎を担当していた・・
達郎氏:
ふふ(笑)
宣伝の(笑)
小林克也さん:
そうそう、宣伝の。
吉村公三郎さんの息子の、映画監督のね。
克也さん、ちょっと相談があると。
彼と洋楽のもを作っていたんですけど。
大阪がすごいことになってる。
今の言葉でいうと「大阪ヤバイ」
どうして?って言ったら、4つ打ちで、だいたい基本で踊るじゃないですか。
ところが、あの頃の大阪はね、めちゃくちゃなんですよ。
イーグルスの「One of these nights」が流れる。
♪ ジャ~ン
って流れる。
そすと、これ踊る音楽じゃない。
ところがみんなこぞって踊り始める。
それでね、次に達郎が流れる。
達郎氏:
ふふふ(笑)
小林克也さん:
達郎がもっと盛り上がる!
その現象は聞いたと思いますけど。
達郎氏:
はい。
小林克也さん:
そのころね、僕はねスネークマンショーっていうのをやってて。
スネークマンショーで、彼のシルエットが、ほらジャケットになってる、あのアルバムなんか気に入っちゃって、かけてって。
でもあれが売れなくてね、なんて。
達郎氏:
うははは(笑)
小林克也さん:
そういう時代です。
それで大阪では、面白いことに達郎がね一番ウケたんですよ。
達郎氏:
くくく(笑)
小林克也さん:
それで、まだあるんです、ほんとに。
ディスコによって、達郎の好みがちがう。
だから今まで洋楽でプロモーションコピーを作ってたんだけど、達郎で作りましょうよってことになって、「COME ALONG」作ったんです。
それで、それからあとは端折って「ライド・オン・タイム」に至るということなんですが。
達郎氏:
だって「BOMBER」と「COME ALONG」は、あれは突破口でしたからね、僕の。
小林克也さん:
そうそうそうそう!
達郎氏:
あれが運命変えましたから。
小林克也さん:
そういうことで、僕は達郎さんだとディスコだし・・
達郎氏:
うふぁふぁ(笑)
小林克也さん:
達郎さんは、ディスコの・・
達郎氏:
そうですね、それ、だって克也さんが切り開いたんだもん(笑)
切り開いてくださったんだもん(笑)、僕のそれを(笑)
小林克也さん:
それは、だから、大阪という街の独自性があった。
達郎氏:
本来のディスコティックっていうか、そういうものの本質により近いですね。
そっちの方がね。
モノ選ばない。コンテンツさえ良ければ。
小林克也さん:
大阪の人たちの、その本音に早くたどり着こうとする・・
本音を求めるっていうんじゃ・・・大阪、正解だった。
達郎氏:
そうですね。
小林克也さん:
そこが、達郎をディスカバーした。
ここで、僕の話は終わりです!
達郎氏:
ははは(笑)
♪ BOMBER
◎ 踊らせる
小林克也さん:
山下達郎は絶対に踊らないという(笑)
達郎氏:
ブライアン・ウィルソンがサーフィンしないのと同じです(笑)
小林克也さん:
ロギンス&メッシーナの♪~ MAMA DON’T DANCE ~
パパは踊んないんだ(笑)
達郎氏:
はははは(笑)
We can’t dance(笑)
小林克也さん:
でも、でもこういうような音楽は作るわけでしょ(笑)
みんな躍らせたわけでしょ(笑)
達郎氏:
ディスコに聴きに行ったんですよ。
で、こういうビートだったら、みんな踊りがノッてるんだ、とか、そういうことを聴いてましたから。
こっちは音楽作る立場だから、踊る立場じゃないからね。
躍らせる立場だから。
躍らせるためのビートっていうのが、どうなのかっていう、それの研究をしましたよ。
小林克也さん:
あぁ、やっぱ、そう。
達郎氏:
ええ。ポリリズムっていうかね。
そういうの。
で、ブラスバンドだから、僕・・
ブラスバンドって、ラテンすごく強いんですよ。
ラテンたくさんやるので、ラテンのポリリズムに関しては、ある程度の知識があるんで。
それが、やっぱりこう・・
例えば、だからマイアミ・サウンド・マシーンとか、ああいう人たちのポリリズムとか。
やっぱりあとはサルサですよね。
向こうのディスコは、そういうところまで共有できるけれども、日本はやっぱり、ちょっとステレオタイプっていうか。
とにかくベードラが4つ打ちがディスコだっていう、そういうこう・・決まりきったものがあるんだけど。
もうちょっと、やっぱりそうじゃないじゃないですか。
でも基本的には、ロックンロールにしろ、ラテンにしろポピュラー音楽にはダンスミュージックの要素がすごい多いですからね。
そっちの方、むしろ昔強かったので。
ベニーグッドマンの時代とか、要するにダンスミュージックじゃないですか。
それがだから、音楽的な意味、要するに優れているものがリスニングミュージックとか鑑賞音楽としての質持ってるものが、ま、要するに歴史に残るっていうんですか?
だからディスコなんかでも、基本的に音楽的に優れているものは、今でも聴けますし。
だから、変なもの、たくさんあるわけですよね(笑)
それはまた、それで面白いんですけれど(笑)
そういうのは、踊れればいいんで。
ダンスミュージックとしては、普通に正解だっていうね。
だから常にアメリカないし、欧米の音楽って、ダンスミュージックとリスニングミュージックとを行ったり来たりしてるっていうかな。
◎ 音の変化
小林克也さん:
で、山下達郎さんは、あの頃はね、
達郎氏:
はい。
小林克也さん:
やっぱり、ディスコを中心に、ボトムの音っていうのは、一番ディスコがコンシャスだったんです。
ラジオの場合は、こうであればいいっていうような、一つの答えがあったんだけども。
ディスコの音の変化っていうのは、まずバスドラの響きが全然変わっていくわけですよね。
達郎氏:
さっきの、その克也さんの歴史の説明で、よくわかったんですけど。
やっぱり60年代の終わりくらいになると、オーディオがものすごく発展するんですよね。
小林克也さん:
はい、はい、はい、はい・・
ハードがね。
達郎氏:
ハードが。
ライトでも・・照明技術も発達してるし。
それが結局ウッドストックまでいくわけですよ。
だからウッドストックは、やっぱり音響設備のアレがなしに、あれだけの人数聴かせられませんから。
そのオーディオのアレが結局こういうダンスフロアっていうか、ちっちゃなところにフィードバックしてくるわけですね。
照明もそうですし。
オーディオのいい音っていうのが、あって。
FMが発展して。
ラジオもいい音になって。
みんな要するにオーディオ的なスペックが上がってきたんで、そういう快感現象っていうんですか・・重低音がこう・・腹に響くキックの音が、スピーカが出せるようになったから。
それまでは、だって電蓄ですからね。
小林克也さん:
そうそう、そうそう。
僕はね、ディスコでね、やっぱり酒飲むじゃないすか。
酒飲むと、メイン・スピーカーのもとに行ってね、抱き着くようにして聴くのが好きでしたね。
達郎氏:
うはははは(笑)
小林克也さん:
その音はなんとも言えない(笑)
グォーンってやられる音が(笑)
そいで、達郎さんは、そいう音も聴いてたわけですね。
達郎氏:
そうですね(笑)
小林克也さん:
ほら、70年代からボトムばっかりじゃなくて、今度はスネアをみんな加工してくるようになったりとか。
そういう歴史がありますね。
達郎氏:
ありますね。
小林克也さん:
それは、山下達郎としては追っ掛けましたか?
それとも自分の中に、やっぱりこれは俺の領分だからっていう風な感じで取り入れたのか・・・
達郎氏:
あの・・
何ていうか、トレンドなものほど陳腐化が早いんで。
小林克也さん:
すたるんだ。
達郎氏:
だから僕はゲート・リバーブ1回も使ってこなかったし、ドラム・ループも1回も使わなかった。
小林克也さん:
ゲート・リバーブ使ってない。
達郎氏:
使ってない!
ええ、歴史上。
へへへ(笑)
小林克也さん:
ゲート、説明しましょう。
1980年代の、ええと・・フィル・コリンズ達の「ギャーッ」とか。
達郎氏:
そうですね、デュラン・デュランとかね。
小林克也さん:
デュラン・デュランだとか、ああいった音は絶対使わない。
達郎氏:
使いませんでした。
◎ レコード産業
小林克也さん:
どうですか、あの頃から、70年代からすーっと今に比べると、そんなに変わってないですか。本人的には。
達郎氏:
僕自身は変わってないですよね。
でも、世の中のアレは、やっぱりマシーンの方が圧倒的に勝っちゃてますから。
人間、今ほら、昔みたいにドラムの練習して、ベース練習して、一からピアノやって・・
あれしても、今、それでは生活ができない。
小林克也さん:
うふふふふ(笑)
達郎氏:
だから、生演奏の場っていうのが、で、それで要するに賃金を稼ぐっていうシステムが崩壊しつつあるわけですよ。
だからもう、ほんと、家でドラム・マシーン一個あれば曲作れちゃうから。
ヒップホップがそれを変えたんですけどね。
ちっちゃな四畳半で、それでコンピューターいじくって。
それこそ、ソフトでも作れちゃうから、今は(笑)
そういう時代になると、そうやって、もうきちっと筋肉鍛錬してね(笑)
それで、正確なタイムで早く演奏するっていう、そういう技術がお金になったのが、そんんなにでも、なくなっちゃってる。
それがやっぱり、ミュージシャンの層を薄くしてますよね。
日本は特に(笑)
それが、やっぱりいいことなのか、悪いことなのか、僕にはわかりませんけれど。
小林克也さん:
この5夜の番組はね、振り返ると同時に、ちょっと未来はどうかなっていう・・
予想を言えるみたいなことですけど。
達郎氏:
レコードっていうものが、やっぱり複製文化じゃないですか。
大量頒布?
レコードも結局要するにその・・
何百万枚とレコードが売れるようになってから、それが莫大な富を生むので。
音楽が、それこそ莫大な富を生むっていう時代がなかったのが、レコードっつのが生まれてから、1930年代くらいから、そういうことが始まったわけですね。
それが爆発的になってきたのが、60年代のビートルズ以降の・・
ビートルズの爆発的なセールスっていうのは、音楽の内容もあるんだけど、オーディオの向上もあるんですね。
いい音?
小林克也さん:
あの間の進歩ってすごいですからね。
達郎氏:
すさまじい!!
30センチのこのアナログの中にミクロコスモスとかピンクフロイドとか、ああいう世界のね、もう無限の世界が広がって(笑)
ああいうものって、それまで無かったわけですね。
映画でもやっぱり、そうじゃないですか。
「2001年」とかね、ああいうものが作れるようになった。
そのあともCDと、あれがやっぱり映画産業がそんだけ膨大にしたんだけど・・
音楽は残念なことに、今は、なんて言うのかな・・
レコードよりも「タダ見聴き」ができる?
メディアになっちゃってる・・
レコード産業っていうことが、ものすごく縮小しちゃってる。
小林克也さん:
「タダ見聴き」っていうのは、ダウンロードからね・・いわゆるダウンロードで買うようになって、それから今度は今ストリーミングになって。
ストリーミングはアメリカなんかは、例えばなんでも聞き放題だって・・
達郎氏:
150万曲聴き放題みたいなね(笑)
◎結局ライブ
小林克也さん:
そういうふうな時代になっていくと、僕ら、たとえばYMOなんか出てきたときに、彼らのものがfuturelyticsだったんで。
ある日突然浮かんだのは、あ、そうか・・・昔みたいにギターひとつ持って、今日一曲いかがですかっていうパーソン・トゥ・パーソンであったけど、それが、ライブ・・ライブってものは消えないのかなって。
達郎氏:
結局ライブになりますよね。
昔に戻りつつある。
レコードが生まれる前の。
小林克也さん:
前に戻る。
達郎氏:
前に戻って・・
だから今は、一番・・ライブですよね。
ライブ、あとグッズ。
ドームとかアリーナの大量動員。
そういうようなもので、要するにたくさん動員して、それで利益を生んでいく。
それが、レコードが何百万枚、拡大再生産するのと同じ能があるんですよね。
小林克也さん:
ま、それは、あの・・・
例えば経済学者的な、社会学的なものを含めた見方ですけど。
たとえば、一介のミュージシャンであるとすると、ミュージシャンの存在っていうのが・・
達郎氏:
んんん~(笑)
小林克也さん:
さっきの話でいうと、例えば今のADMだとね、ドラムスとベースとキーボード、あるいはギターがみんな一つになったような・・・
※ADM:Acoustic Dance Music
♪ Ban Ban Ba Pa Pan~ (克也さん)
みたいな。それで、歌ったりする。
そうすると、まぁ失業する人間が4人(笑)
同時に作る側としては、4人のものを全部持ってて。
で、なおかつ未来だと、今までの知識を溜めたりするものは、すごいですから。
膨大な知識があるわけですよね。
それを利用するっていうと、結局ミュージシャン的な職人の腕よりも、プロデューサー的な頭の腕みたいなのが、ある人が、いいものを作っていくっていう。
そういう感じでしょうか。
達郎氏:
まぁ、でも、例えばサルティンバンコじゃないけど、ああいう、やっぱりその・・
鍛え上げた肉体が、親指で逆立ちして歩くみたいなね、そういうの結局「芸」じゃないですか。
特殊技能でしょ。
そういう意味での、例えばあのぉ・・イングヴェイ・マルムスティーンみたいな、ああいう速弾きとか。そういうような芸事としての音楽演奏っていうのかな。
クラシックだって、そうじゃないすか。
やっぱリストとかパガニーニみたいな、ああいう曲弾き、超絶技巧、ああいうのは売りになるわけですよ。
セールスになるわけで。
それは、だからそうやって、マシン1個でできる音楽ではできないことなので。
そういうところの二極化っていう、あれなんですけど。
結局は、その資本主義の論理で、それが、どらくらいの価値を生むかとか、そういうことになってくるんで。
やっぱり、経済学的なものなので。
それは僕には、わかりませんけど。
ただ、僕はミュージシャンで歌うたって、曲作って、ギター弾いて、ライブやってる人間なので。
そこのコンテンツっていうか、そこの演奏技量とか、例えばどういうショーとしての観客を満足させるとか、そういうノウハウは一所懸命研究して、それでやっぱりお客さん来てくれるようにって努力はしますけどね。
だから、それは本来の実演というものの・・あの・・何て言うの・・基本だから。
だから、それは今、例えば火を噴くだの、煙出るだの、ダンサー50人並べてやるだの、空から何かが降ってくるとか、そういうようなものも含めてね。
みんなそうやって日々研究して、どうやって大量動員を図るかっていうのをね(笑)
あとはだから、年を取ってくると・・
僕は今年、ツアー始まったばっかりで49本やりますけど。
年取ると、みんな辛くなるので。
それをドームに・・4万5千だから、そっちの方が楽だってね。
そういうのもありますし。
いろんなアレがありますよね(笑)
一言じゃ言えません(笑)
◎ 一皮むけた
小林克也さん:
いやぁ~
で、そういう、だいたい外側からこの話って、攻めてるような話ですけど。
内側から行くとね、山下達郎という人が秀でる時期があったわけじゃないですか。
子供のころから、めちゃくちゃラジオが好きで・・
僕はよくネタとして話しますけど、”あの人トラックの運転手でアルバイトやったらしいよ。どうしてかって、ラジオが聴きたかった。でもその時には、一番聴いたのはピンカラだよ”っていう(笑)
達郎氏:
一番流行ったんですよ
小林克也さん:
そういう風な、まぁ、山下達郎物語っていうのは、これ聴いてるみなさんの中にそれぞれあると思うんですよ。
それは、その・・ウィークリーにFMの番組かなんかでリフレッシュしてくれたり、してるわけですけど。
その中で「あっ!!」っていう・・一皮むけるとか、二皮むけるとか、そういうような瞬間って、何回かありますしたか。
達郎氏:
もちろんです。
小林克也さん:
それの連続ですか。
達郎氏:
連続とはいいませんけど。
一番やっぱり自分の記憶に残っているのは「ボンバー」でね・・
そのころ僕は、東京のすごいインディーなミュージシャンだったんで。
地方のツアーなんて、行けなかったです。
やっぱり経費的に無理だったので。
初めて、それで大阪で、なんかボンバーがディスコで流行ってるらしい。
狐につままれたみたい。
ほんとかよ、みたいに1979年の頭ですけど。
それで大阪にライブに行ったんですよ。
大阪サンケイホール
今でも覚えてますけど(笑)
それまでのお客と、全然違うお客がいるんですよ!
そこにね。
東京のいわゆる、日本のフォーク、ロック好きの口うるさいね(笑)
「前のアルバムと比べて、あれがどうだ、こうだ・・・」
評論家ごっこみたいのと、全然違うお客がいるんですよ。
「ボンバー」って曲は別に、そういうニーズに合わせたとか・・
そういうんじゃないんだけど。
なんかそれが・・そうか!こういうやり方があるんだと思ってね。
こっちの方が音楽だよなって思って。
それはね、すごくそれで救われたっていうか・・・
小林克也さん:
ほう・・・救われた!
達郎氏:
救われた!
それまでは、ほんとに評論家のインタビューと喧嘩して。
なんか要するに、結局ディベートやりたくて取材してるようなところがわるわけですよ。
音楽評論家とか、新聞記者がね。
音楽に対してポリシーとか・・・だって、いいじゃん!聴いてよけりゃっていうね!!
そういうことってあるわけですよ。快感原則ってのがある。
そうやって、やっぱり心優しき音楽好きの少年だって・・・思想性がないとかね。
映画なんて、あるじゃないですか昔。
そういうので、いちいちディベート・・
僕はミドルオブ・ザ・ミュージックだから、とんがってる音楽じゃないから。
そうると、なんか軟弱だとかね、コマーシャリズムだとかね。
ふざけんなって!
そういう音楽評論家、音楽雑誌のライターとか、そうやってあれするでしょ。
でもその大阪のホールに来たお客は、いわゆるアメリカ村のサーファーなわけですよ(笑)
こういう手もあったのかって(笑)
小林克也さん:
それはずごいね!
東京へ帰ったら違う人間になったような感じでしょ。
達郎氏:
ほんとに、そうです。
自分の知らない世界っていうか、違うお客がいるんだっていう。
そういう、だから、そういうお客にアピールする方法もあるんだっていう。
それからだから、割と有線とか、そういうのやるようになったんですよね。
小林克也さん:
そういうことを体験するとさ、音楽が音楽以外の分野で、ものすごく影響を与えてるっていうのを・・
達郎氏:
確かにそうですね。
小林克也さん:
あるでしょ。
だから、それねすぐ思い出したのは、YMOがね・・
YMOも、うるさいミュージシャン3人だったわけで、それぞれの分野で。
ところが、YMOとして売れてホールにいる客を見たら、今までの人間と全然違う!
達郎氏:
おんなじですよ(笑)
小林克也さん:
こればかりか、俺達の音楽を聴きに、リーゼントの若者がすっごい来てる。
これは、だれを目標に来てるって・・
リーゼントは高橋幸宏さん。
だけど、面白いでしょ。
高橋幸宏は、人生の楽しみ方がすごい上手い人で、ファッションをはじめとして、一番あのころの言葉でいうとナウい恰好してるところに、リーゼントの若者がいっぱい来て。
幸宏のファンなんですって。
達郎氏:
幸宏さんはドラムは超一流ですからね!
小林克也さん:
それで彼らがおそらく想像するに、その次にはYMOに行ったときには、もうあのリーゼント、ばかーっと切った・・長いも短いもバカッと切ったはずですよ。
そういうような影響っていうのは、音楽が生き方だとか、考え方に影響するっていうのがありますよね。
達郎氏:
だって、ジョンセバスチャンがボトルネックのTシャツ着てるのでボトルネック欲しいなと思って・・
ロン毛にしたは、あの時代のね、ビートルズから先の・・ロン毛だから、だからロン毛にしたわけで。
それは僕らだって同じですよね(笑)
小林克也さん:
そうすると、達郎さんの音楽でも、歌詞がね・・
結構、これはちょっと古い時代の、しかかり方をしてる歌詞だなとか、ありますよね。
達郎氏:
あります(笑)
小林克也さん:
今、作られる音楽というのは、最近出してる新曲みたいのは、今、達郎さんの現状ですか。
達郎氏:
そうですね(笑)・・
小林克也さん:
それとも、昔を思い出して、昔の自分音楽も当然入ってくると思うんですけど。
達郎氏:
僕はね、同世代音楽っていう、そういうようなキャッチフレーズで、
ずーっとやってきたんですよ。
だいたい僕より10下くらいの人たちが一番僕のコアなファン層なんですけど。
最近ちょっと、さらに親子三代みたいな世界になってきたんだけど。
自分が20代の時に20代のメンタリティがあって、30代のメンタリティがあって、やっぱり・・・
今65になったんで、そうすると、やっぱりこう・・・人の生き死にとかね、友達が鬼籍に入る友人とか、たくさん出てきて。
このあいだも、だからシュガーベイブのベーシスト寺尾次郎っていう・・
彼はフランス語の字幕の大家ですけど、このあいだ亡くなっちゃって・・
そういう、自分の同僚というか、一緒に釜の飯食った連中が少しづつ鬼籍に入ってる・・
そういうところになると、自分のなんていうかな・・生きてることっていうか、死生観っていうか、そういうのが歌に反映されます。
ここんところ、そういうのが割と多いですね。
♪ REBORN
◎ 世界をマーケットに
小林克也さん:
ちょっと話、全然、違うカメラから見るような変え方しますけど。
あの・・・・
あのね、僕も話ながらどうしようかと思って。
達郎氏:
ははは(笑)
小林克也さん:
ディスコでガンガン4つ打ちがかかる予定だったんだけど。
今、例えばディスコっていうと、ま、ダンスミュージックってことになりますと。
この間ね、韓国のね、BTSっていう防弾少年団っていうのが、アメリカのアルバムチャートで1位になっちゃったんです。
それで僕らは誇りに思っていたのは坂本九の「スキヤキ」が、「上を向いて歩こう」が60年代アメリカのチャートを制した。
韓国が今度は1位になっちゃった。
で、彼らはどういうような音楽かっていうと・・・
やっぱり、彼らは国の中ばっかりじゃなくて、外にも稼がなきゃダメだから、結構音楽の基準も厳しいじゃないですか。
でも日本でウケるっていうことも意識したのかどうか、知りませんけど。
グループでやっていて、それで、あのぉ・・・向こうの人間と話しをしたんですよ、どうして1位になったかっていう。
そうすると、今のダンス音楽だとか、ヒップホップっていうのが、そうとう変わっている・・
例えばラップなんかも昔のラップ音楽なんかに比べると、気が抜けたようなね、脱力したような音楽で。
それからメロディがついていて、メロディを歌うようなラップになっていて、それもかなり繰り返しがあると。
アメリカでなぜ1位になったかというと、アメリカのティーンエイジャー達、女の子たちにとっては、ちょうどビートルズ達が出てきて、ビートルズの物珍しさみたいなのに似てるって。
達郎氏:
なるほど・・
小林克也さん:
で、いい子たちだし・・
ジョンやポールはプレスリーなんかの不良じゃなかったじゃないですか。
そいでしゃべり方だとか、歌のノリ方・・
リズム&ブルースだけど、違うじゃないですか!
いわゆるなんて言うんですか・・
自分たちがやるものと違って、その新鮮さってのは、あるんだっていう。
そいでウケてんのが「FAKE LOVE」っていう曲なんです。
これ、「rockstar」っていうね、アメリカで売れたヤツにちょっと、繰り返しの部分なんかが似てるんです。
でも、「rockstar」ってのは結構すさんだ生活を歌ってんだけど、この「FAKE LOVE」っていうのは、男の子と女の子が、中学生なんかが入りやすい歌詞になってると。
達郎氏:
なるほど・・
小林克也さん:
で、それで僕は、「宇多田」っていう人がね、このあいだNHKのテレビに出てて、思わず見ちゃったんですけど。
あの人がアメリカで売ろうとしたときにアルバム出したんですよ。
あのアルバムがものすごくレベルが高かった。
で、アメリカでそのころ流行っている、ティーンエイジャーたちが夢中になる音楽よりも、僕はね「宇多田」の方が上だと思う。
達郎氏:
なるほど(笑)
小林克也さん:
当然アメリカでは、ちょっとお客を見てないっていうか・・
見てない音楽だから。
あと宣伝の力が・・
「上を向いて歩こう」っていうのは、めちゃくちゃ宣伝費かけたから1位になっちゃった部分があるんです。
そいで、あれ売れなかったって・・
日本の音楽の偉い人ががっくりしてるから、僕は、そうじゃなかったんだなって。
ちょっと話が長くなったので、達郎さんね・・
日本の音楽っていうのは、達郎さんも・・海外を見てるし、海外の人たちとやってて・・・
日本だけの音楽じゃなくて、例えばディスコが世界を制したように、いってもいいんじゃないかなって、思うんですよね。
で、達郎さんなんかの音楽に、そういうようなものを僕は見たんですよ。
でも、ある時期それは、もう絶対達郎さんも、海外の人たちに聴いてもらいたいとか、あって・・
それが、あきらめたっていうか、自分の音楽は、こういったものなんだって思った時期があるんじゃないかなって思ってね。
達郎氏:
僕、はじめから海外でやるっていうのは微塵もありません!
小林克也さん:
なかったですか。
達郎氏:
え。
そういう時代じゃなかったんですよね。
いろいろ、そりゃ話出すと長いんですけど・・
基本的に僕は、高校ドロップアウトしてミュージシャンになったので。
ほんとはミュージシャンになる気もなかったし。
変な言い方すると、しょうがなくてミュージシャンになったんですよ(笑)
そこまで、やること無かったんで。
で、職業作家だったら、もうちょっとグローバリゼーションっていうか、そういうのを志向したことがあるかもしれないけど。
僕の場合、シンガーソングライター・・
シンガーソングライターって何かっていうと、自分の世界を、自分の言葉で歌うっていうか。
自分の存在と音楽がわりと不可分なんですよね。
でも、職業作家は、自分の人間とか生き様とかと作品は違うんで。
そういう分離したものじゃなくて、僕ら一体化してるので。
そうすると、ライブひとつにしても、一番重要なのは確かに
曲であり、
詩であり、
編曲であり、
演奏なんだけど、
例えばしゃべる言葉・・・
例えば今日のお客さん、今日は暑くてアレでしょって・・
だからもう、何回となくね、例えば
香港でやらないか・・・
ハワイでやらないか・・・
ロスでライブやらないか・・・
僕、全部断ってきたんです!!それ。
なんでかっていうと、MCも含めてのライブなので。
僕の場合にはMCが非常に重要な要素があるんですけど。
それを日本語の言語がわからない人たちに、僕が英語でしゃべっても、全然通じないんですよ。
そこでね、やっぱり下手すると30%くらいロスするんですよ。
自分の中の・・・
小林克也さん:
あぁ~ わかる、わかる。
達郎氏:
それは、やっぱり僕が、仮に今の17歳とか18歳だったら・・
例えば、もうちょっと英語に接するチャンスもあったし。
もしそれで、もうちょっと英語力が自分あったら、もうちょっと考え方違ったかもしんないですけど。
例えば帰国子女だったりですね・・・
でも僕は・・時代とか、自分の基本がそうじゃなかったので。
自分のスタンス考えて、それだったら、僕の時代のお客は基本的に、みんな東京、大阪の大学へ出てきて、それで郷里へ帰って、Uターンが一番大きな時代だったんで。
自分の郷里に帰って・・
例えば岩手とか青森とか、帰って、そこで就職して結婚して、子供生んで、今でも住んでる。
僕らの場合は、だから全国コンサート、今年49本やりますけど、全国行っても動員がちゃんとできるのは、その時代の人たちだから・・・
で、今はUターンしなくなっちゃった。
少子化って影響もあるし。
大都市集中の経済になっちゃってるんで。
だから若い3ピースのバンド、地方行っても、若い人がいない。
それは非常に、だから、例えば・・
コンサートツアーとか、そういうのの構築のやり方のひとつにしても僕らの世代と違ってきてるので。
そういう、アレなんですけど。
例えば、ワンオクロックみたいなのが出ると、きちっと英語が喋れるし。
それこそ向こうのヘッドライナーを死ぬほどやらされて・・・
そうなってきたら世界を狙えるなって、僕ライブで何回も言ってますけど。
やりようによっては世界を狙えるなって、そういう時代にはなってきてますけど。
残念ながら僕の時代は、そうじゃないから(笑)
小林克也さん:
時代が違ってた。
達郎氏:
で、もう、この歳ですから(笑)
そういうこと、やってることがあったら、やっぱ山形とか秋田行って、そういうところに住んでる人たちのためにやるっていうのが、僕に課せられた、与えられた自分の責任だって、自分は思うので。
そういう・・・すごくシンプルです(笑)
小林克也さん:
だけどね、俺はちょっと違うんだよ。
あの・・その自分のことを、そういうふうに思えば思うほど、それは国際性だと思うの。
達郎氏:
そうですか(笑)
小林克也さん:
あの、ほら、よく国際性ってのは、その・・ブレンドして、向こうのものを取り入れて、それで共通のものを作って、それが国際化だって、みんなの意識の中にあると思うんだけど。
ほんとは全く違って、例えばなんで日本人が作る日本独特の芸術品を外国の人が来て、これはすごいって言うかというと、やっぱり、それは日本だから・・
そうすると、達郎さんの音楽ってのは、アメリカのものだとか、黒人のものだとか、みんな入ちゃって。
それがレリーフ、ごったになちゃって。
すっごい日本的なものになってるわけ。
それは・・・
それは、やっぱり達郎さんが仕掛けるものではないかも判んないけど。
絶対わかって・・
良さってのをわかってくる、っていう・・
だから、それがね、例えば・・なんだろうな・・
「アトム」だとか、ああいうものは、例えば20年くらい経った時に、誰かが発見して、曲を使って、すごいことになる・・
あ、これが日本だったんだなって、いう発見があるかも判んないと、思うんでね。
だからそういう可能性持ってるわけ。
だから、そこんところは、結構ね・・
例えば桑田佳祐はどういうふうに感じてるんだろうか。
だって宇多田は夢見たはずですよ。
でも、あの頃は、やっぱり宇多田のように、アメリカのティーンエイジャー達がレコード買う人は、宇多田のようになりたかったかという、そういう「なりたい像」じゃなかったわけですよね。
達郎氏:
そういう芸術とか、あんまりいい言葉じゃないですけど、アートとか、クリエイティビティとか、そういようなものに対する価値尺度が、若干違うんですよ、日本と、欧米とね。
あんまり・・・言葉選んで言わなきゃなんなくなるけど。
ヒットこそが正義だというね。
要するに故郷に錦を飾るみたいな、そういう発想がすごくあるけど。
日本はもっとインナーワールドっていうか。
個人のやっぱり、その・・もっと哲学的な問題っていうかな、大げさに言うとね。
だから、能であり、浄瑠璃であり。
人形動かすだけなのに、どうしてそこまで突き詰めるのかっていうね。
能に至っては、1センチ、2センチ動かす、その必然性みたいなの追い続けて何百年なわけですから(笑)
そういうところが、やっぱり日本人であるっていう、そういう民族性から逃れられないっていうかね。
だから、オタクが多いのもそうだし(笑)
小林克也さん:
あと、今日の番組はですね、ディスコでやろうと思ったんですけども・・
達郎氏:
はははは(笑)
小林克也さん:
こんな時間が来てしまいまして。
達郎氏:
へへへ(笑)
おかしい(笑)
小林克也さん:
でも達郎が(笑)
踊れないってのを聞いて、俺すっごいそれ一番のショックですよ(笑)
◎大瀧詠一さん
達郎氏:
克也さんて巳年なんですね。
小林克也さん:
巳年!
達郎氏:
ひとまわり違うんだ、僕と!
僕巳年なんで。
小林克也さん:
あっ、そう!
達郎氏:
そうなんだ、大瀧さんが間なんです。
五つ。
小林克也さん:
だけど、大瀧さんも、あの人も凄い人でしたね。
達郎氏:
うはははは(笑)
のらりくらり、いきますからね。
小林克也さん:
山下達郎っていう時に・・・大瀧詠一さんの影ってのは、少しあるんで。
達郎氏:
ありますね(笑)
小林克也さん:
大瀧さんのことも、少し話して。
霊を慰めて。
あの人、ほんと、おかしいですよね。
ゲストに、1時間の番組に迎えたことがあって。
どの音楽をかけようか、そうとう悩むわけですよ。
達郎氏:
そんなん、いいんですよ悩むなんて(笑)
小林克也さん:
それで、結局どうなったかというと、最初から最後まで音楽はひとつも、かかんなかった!
達郎氏:
はははは(笑)
よーくわかります(笑)
小林克也さん:
好きなことしゃべって、帰っていきましたよ。
達郎氏:
しゃべり負けするのが、一番プライド傷つくんですよ、あの人(笑)
うはははは(笑)
だから相手の倍しゃべるんです(笑)
はははは(笑)
小林克也さん:
すごいんですよ、もう(笑)
それは、それはもう、大瀧さん迎えて、大瀧は1曲もかけなかったっていうのは、自慢なんですけどね(笑)
達郎氏:
うはははは(笑)
◎アイズリー
小林克也さん:
だから達郎さん来てくれた、3枚のCDの中から・・
一応、今日ディスコなんですけど。
アイズリーを。
達郎氏:
これ、アイズリーの全作品の中で1、2を争う好きなやつなんで。
小林克也さん:
あぁ、そうですか。
アイズリーはおもしろいグループですよね。
あのグループは。
達郎氏:
あのね、結局音楽ってね、何に感動するかっていうと、どうやったらこんな音楽作れるんだろうってのがね。
で、アイズリーはね、キーボード弾いてるクリス・ジャスパーは”いとこ”なんですけど、この人が基本的にああいうパターンを考えてたんですよね。
ドラムのパターン、ベースのパターン、それにギターが入って、キーボードが入って、それの複合リズムっていうか・・
これはほんとに信じられないくらい、アイデアに満ちているんですよね。
それは弾き語りでは作れない音楽です。
人間が集まらないと、ドラム、ベース、ギター、キーボードが、一斉にバーンってやらないと生まれない、で、今機械でできちゃうんで、あれなんですけど。
そのアイズリーの時代はテクノじゃないんで。
ドラムマシーンじゃない時代だったから。
人間集めてやるしかないわけですよ。
試行錯誤して、そこんところ、もうちょっと・・・にしようとか。
そういうので、試行錯誤して作るあれです。
今は、打ち込みで全部それができちゃうから、あれなんですけど。
この時代のアイズリーの音楽って、そういう手間とアイデアが密集してる(笑)
小林克也さん:
彼らの最初の有名なやつは、たとえば「ツイストアンドシャウト」
達郎氏:
そうですね・・・
「シャウト」でしょ。
あそこから、もうずっと星の数ほど・・・
しばらくなくて、「ザット・レイディ」で復活して。
小林克也さん:
あれもまた・・すごかったでしょ・・あの音は。
達郎氏:
とんでもない!
小林克也さん:
今日の曲は、どからあたりを?
達郎氏:
79年です。
「Winner Takes All 」っていうね。
小林克也さん:
あ、あ・・わかりました。
達郎氏:
これ、ちょうど「ライド・オン・タイム」の撮影にサイパン行って、ディスコがあって、たいしてお客いないんだけど(笑)
毎日行くと、もう4日目くらいになると、そのDJ俺の顔みると「ディスコナイト」かけるの(笑)
ふふふふふ(笑)
小林克也さん:
あ、そう(笑)
じゃ、結構ディスコの思い出の・・・
達郎氏:
想い出の(笑)
小林克也さん:
それいいな、思い出語ってくれました(笑)。
アイズレーで締めます!
小林克也の音楽グラフティー、第2夜、山下達郎さんをゲストに迎えてお送りいたしました。
達郎氏:
どこが、ディスコやねん!(笑)
小林克也さん:
あしたは、第3夜、ピーターバラカンが登場します。
この人もクセがあります!
達郎氏:
うはははは(笑)
濃い人ばっかり呼んでます(笑)
小林克也さん:
どうもありがとうございました。
達郎氏:
いえ(笑)
もう、いつまでもお元気で!
小林克也さん:
ありがとう(笑)
♪ Winner Takes All/The Isley Brothers
—end—
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