山下達郎さん NHK-FM『サウンドクリエーターズ・ファイル』2012年9月2日
さまざまな世代のサウンドクリエイターが月替わりで登場、作品にまつわる秘話や影響を受けた音楽を、こだわりの選曲を交えて紹介するNHK-FM『サウンドクリエーターズ・ファイル』。
9月2日(日) 21:00 – 23:00
9月16日(日) 21:00 – 23:00
9月23日(日) 21:00 – 23:00
第1回の2012/9/2のオンエアでは、達郎さんが音楽を始めたころの話などプロに至るまでのお話が興味深かったですね。番組後半ではクリス松村さんがゲストでしたが、二人で音楽を語り合うのが印象的でしたね。クリスさんの音楽に対する考え方、基本姿勢が素晴らしい。
シュガーベイブのマネージャーをされていた長門さんが長崎市出身という事は知っていましたが、達郎さん曰く
「その時代にロック喫茶で働いてる人間ってのが、長崎の出身の人達がたくさんいたんだけど。
その人達がまた、いわゆるオタクで。」
長崎に住む私にとって長崎と達郎さんの間に接点があることに感心があります。
このブログでは前半部分の一部をテキスト化しています。
誤字脱字は、ご容赦くださいませ。
◎ 冒頭
達郎氏:
こんばんは、山下達郎です。
サウンドクリエーターズファイル。
この番組は様々な世代のサウンドクリエーターが月替わりで登場するプログラムです。
作品にまつわる秘話、そして影響を受けた音楽、こだわりの選曲を交えながら紹介するプログラムであります。
さて、9月は3回にわたりまして、私、山下達郎が担当させて頂きます。
皆さん、何卒宜しくお願い致します。
今日、9月2日、ちょっと飛んで9月16日、9月23日
3週間お付き合いください。
今日はこの方にパートナーとしてお付き合い頂きたいと思います。
平田毅:
はい、NHKアナウンサーの平田毅です。
宜しくお願いします。
達郎さんとは去年9月に『今日は一日山下達郎三昧』という10時間にわたる番組でご一緒させていただいて。
達郎氏:
丁度一年ですね。
平田毅:
私、あれで達郎さんと番組できるのは最後だと思ってたんですけども。
達郎氏:
ははは(笑)
平田毅:
思いがけず、一緒にあせて頂いて、ほんとに幸せです。
ありがとうございます。
達郎氏:
いや、こちらこそ(笑)
NHKは、ほんとに30年くらい前からレギュラーも持たせて頂きまして・・・
たびたび伺わせて頂いておりますが。
去年の『三昧』ってのは10時間プログラムで、重厚長大のプログラムでしたので、誰か、やっぱりNHKの方に協力して頂こうと。
パッと考えたんですけど、実はNHKのプロデューサーの方とかディレクターの方はたくさんいますけど、アナウンサーの方の知り合いって、一人しかいない!
この平田さんってのは、今から去ること30年前にですね、青森の・・・
平田毅:
そうですね、私の初任地でした。
達郎氏:
へへへ(笑)
最初の赴任地、そこのリクエストアワーという、ローカル局の6時から・・
平田毅:
50分ですね。
達郎氏:
その番組が全部NHKのローカルで全部あるんですが。
そこのリクエストアワーでお皿を回しながら喋ってたのが平田さんで。
私と同年代の方なので、以来、30年・・・
いろんなとこで付き合いが続いておりますが。
仕事したことは殆ど無い!
ですよね?
平田毅:
そうです。
ポツン、ポツンです。
達郎氏:
それで去年の「三昧」の時に急に思いついて”平田君、ちょっとやってくんないか”
たらですね、平田さんはですね、すごく偉い人になってしまって!
平田毅:
もう今はアナウンス室っていうとこのマネジメント業務やってますけどね。
こうやって現場で、また喋れまして、達郎さんのお陰です!
達郎氏:
副室長ですよ!
副室長!
ナンバー2ですよ!
そんなに偉くなってるとは、つゆ知らずですね、軽い気持ちでいってしましました。
でも去年はほんとに10時間、長丁場、ほんとにお世話になりました。
平田毅:
いや、ほんとにありがとうございました。
今回のプログラムは、サウンドクリエーターズファイルということで、達郎さんソロデビューから35周年。
で、今回この活動期間をですね、3つに分けまして、35年+シュガーベイブ時代の2年を加えて37年を3つに分けて、当時のエピソード、それから曲をかけながら曲作りについて伺っていく。
こういうプログラムですね。
達郎氏:
丁度、ベストアルバムがですね、発表されるのが3枚組なんですよ。
正にそれが今回のサウンドクリエーターズファイルの3つに分けるのと同じ感じで3枚組になって編集されておりますので、丁度いいなと。
今日はDisk-1の紹介というのと、同じスケールですね。
平田毅:
今日はですから、1975年から1982年まで。
アルバムでいいますと「SONGS」から「FOR YOU」まで。
ということですね。
ただ、これベストの曲選び、今日も曲選んで頂いたんですけども。
37年の曲から、どうやって曲を選ぶのか。
聞きたい人もいますよね、皆さん。
どういう基準でこれ選ぶんでしょうか。
達郎氏:
結局、あのぉ・・・・
37年のベストアルバムってないんですよね。
あってもボックスセットで。
平田毅:
ちょっと無謀な感じがしますよね!
達郎氏:
でも、それを3枚組のCDで編集しようって土台無理なんです!
まりやのエクスプレッションズってのがありまして、竹内まりやの。数年前の。
彼女より僕の方が作品数が全然多いので。
270曲くらいになるので。
それを3枚組でやろうというと、それはほんとに、暴挙といいましょうか。
ですので基本的にはシングルコレクションなんですけど。
ヒットソング含めてシングルコレクションなんですけど、シングル並べただけではオーバーフローするので。
結局は自分の趣味です!
平田毅:
はい。
じゃ達郎さん、まず1曲目ご紹介いただきましょう。
達郎氏:
今日はシュガーベイブからFOR YOUまでなので、シングルオンリーなんですが、これは『GREATEST HITS』というのに入ってたんですが、今は『FOR YOU』の再発CDのボーナストラックに入っております。
1982年のシングル
『あまく危険な香り』
♪ あまく危険な香り
◎ 達郎さんが音楽を始めたころの話
平田毅:
私、達郎さんとは1981年3月にNHK青森放送局に達郎さんがキャンペーンにお越しになった時に初めて会って・・・
達郎氏:
そうですね(笑)
平田毅:
・・・お話を伺ったんですけどね。
その頃、それからその前のシュガーベイブまで遡って、達郎さんが音楽を始めたころの話を伺っていきたいんですけども。
シュガーベイブでプロデビューすることになりましたよね。
その前はどんな音楽聴いてらっしゃって影響受けてたんですか?
達郎氏:
洋楽のオタクですね。
一番好きだったのはビーチボーイズとラスカルズってニューヨークの。
だからウェストコーストとイーストコーストの代表的なグループをマニアックに聴いてたんですけど。
ブラスバンドをやってたので、楽器演奏するってことも結構やってたので。
アマチュアバンドやってましたけど。
平田毅:
鼓笛隊でブラスバンド・・・
達郎氏:
そうですね。
小学校6年の時に鼓笛隊に無理やり先生から入れられたのが、パーカッションとの出会いなんですけど。
中学へ上がってブラスバンドでパーカッションやるようになって。
その時に知り合った僕の友達が、僕のポップスの先生で。
彼らが・・・今医者ですけど(笑)
僕にビーチボーイズ教えてくれて。
彼と一緒にアマチュアバンド組んだんだけど。
普通の人は、ジミヘン、クリーム、バディ・ガイそういう時代だったんですけど。
僕らは”そんなのつまらない!”と。
若者のいきがりというか、”コーラスをやろう”と
ビーチボーイズ、無茶苦茶難しかったですよ。
だからビーチボーイズ、トレメローズ、当時全然日本では有名じゃないですけどハプニングスとかアソシエーションとか、そういうようなものをコーラス主体の、そういうのやってました。
平田毅:
その頃、お宅は、池袋・・・・?
達郎氏:
いえ、もう練馬です。
平田毅:
じゃ、その近くにいたお子さんたちと、そういう風に聴いてらした。
達郎氏:
僕は池袋の生まれなんですね。
で、練馬に引っ越したんですが、いわゆる進学校の中学というがありまして目白に。
そこは、遠くは川崎から通ってくるような。
公立の学校がまだ、すごく進学率がよかった時代で、代表的な城北地区の進学中学があったんですけど。
そこに、越境してね。
練馬から目白に通ってたんですよ。
僕のポップスの先生は護国寺に住んでて・・・あとは成増に住んでる子とか・・
いろんなのが一緒に・・
そういう仲間でバンドやってましたね。
平田毅:
広い範囲から、いろんな人が集まって・・
達郎氏:
そうですね。
高校に入るともっと広くなりますから。
進学校なので、みんな越境して来ますから。
横浜とか平気でいましたから。
そういう広いエリアの友達でしたから。
平田毅:
時代的には、なかなかミュージシャンに理解があった訳ではないでしょう。
達郎氏:
全然。
自分がプロのミュージシャンになるなんて事も全然思ってませんでしたから。
平田毅:
家の方でも、なんか音楽やって・・・みたいな、なかったんですか?
達郎氏:
高校入る位までは、好きでやってればいいっていう。
で、そこの志望校っていうか、いわゆる進学校に入れたらドラム買ってやると。
言われたんですよ、中学3年の時に。
一生懸命、あれして入りましたからドラム買ってもらって。
したらもうダメですね。
入り込んじゃって(笑)
もう、それこそ中学の時は学生服のポケットにいつも、後ろのポケットにスティック挟んでて。
なっかっつうと机叩いて、先生にどやされたっていうかね。
そういうアレでしたけど。
◎ 自主製作盤
平田毅:
ここから先はたぶん達郎さんのファンの方、番組聴いてらっしゃる方はご存知のように皆で集まっていって・・・
達郎氏:
そうですね、高校がいろいろとちょっと学園紛争とかに巻き込まれてドロップアウトして。
大学へ入る前・・浪人するんですが、その時には大学へ入って何をやるっていうか、ビジョンが・・・
その屈折感っていうか鬱屈感ってのがあって。
僕の友達、みんなそうで。
大学は入って医者になったやつもいるんだけど、多くは大学入ってドロップアウトするんですけど。
その時に・・アマチュアバンド、それまでやってたんで、なんか形にして残そうと。
一応大学入ったんだから、みんな真面目に勉強してる、どっか就職しなきゃなんないので。
バンド、そんなに長くやれないから、それで記念になにか残そうって言って作ったのが自主制作盤で。
1972年のことですけど。
その自主製作盤ってのを・・・
昔は、その時代は自主製作盤を作ること自体、結構たいへんな作業だったんですね。
レコード会社ってのは、どこでも特販課ってのがあってね。
小唄のお師匠さんが生徒に配るレコード作ってるんですけど、そこにコネがある友達がいて。
友達の兄貴ですけど。
そこに行って、100枚プレスして15万だったんですね。
それを皆でバイトして、分け合って100枚作ったんですね。
それがきっかけですけど。
それ作った時も、プロになろうとか、そういう明確な目的意識が無かった。
◎ シュガーベイブと長崎
平田毅:
そこからシュガーベイブ、プロデビューには、どう繋がっていくんですか?
達郎氏:
もともとは、四谷に喫茶店がありまして。
ロック喫茶ですけど、今はジャズ喫茶になってますけど。
四谷の有名なジャズ喫茶が移転するんですよ。
移転する一年間の時に、本店と、移すとこと二つあった時に、遊ばしとくともったいないので。
本店閉める前に一年間、そっちの・・・本来移るところをロック喫茶として・・・
その時代にロック喫茶で働いてる人間ってのが、長崎の出身の人達がたくさんいたんだけど。
その人達がまた、いわゆるオタクで。
当時の要するにトレンドとは全く違う、ビーチボーイズとかかかってたんですよね。
そこで知り合って・・
僕は、そこへ行った訳じゃないけど、僕の友達が、そこで自主制作盤を聴かせたんですよ。
それで、一枚欲しいって言って、来た人が、後のシュガー・ベイブのマネージャーになるんですけど。
そういう人達とコミュニケ―ションとっていて実は毎週一回、そこで夜中にセッションやってるから来ないかと。
そこに居たのがね、山本コータローさんとか、今ギタリストで有名ですけど徳武君とか、いろんな人がそこに出入りしてて。
その中に大貫妙子さんが居たんですね。
大貫妙子さんはフォークグループ作ったあと解散したあと、彼女を売り出そうという形で彼女に曲を皆でデモテープ作ってた。
そこに僕が割り込んで言って、大貫さんに声かけてバンドやろうかと。
前の昔一緒にアマチュアバンドしてた友達と合体して、それでシュガーベイブが出来るんですね。
平田毅:
なるほどね、それでシュガー・ベイブのプロデビューと。
達郎氏:
そうです。
平田毅:
さて、また曲を聴いて頂きましょう。
今度は・・・
達郎氏:
そのシュガー・ベイブ時代の曲なんですが、シュガー・ベイブ最初期に書いた曲なんですが。
結局シュガー・ベイブとしてはレコードして出なくて、あとに1976年に、シュガー・ベイブ解散したあとに「ナイアガラ・トライアングル」って大瀧詠一さんと伊藤銀次さんと3人で作ったアルバムの中に入ってます。
だから、これはクレジットは山下達郎ですけど、もともとはシュガー・ベイブ時代に書いた曲です。
♪ パレード
◎ CIRCUS TOWN (1976)
平田毅:
シュガー・ベイブ時代を経て達郎さんソロ活動を始めて「サーカスタウン」っていうねソロのアルバム作ります。
「サーカスタウン」は、今達郎さん事務所の社長やってらっしゃる小杉理宇造さんがディレクターでしたよね。
達郎氏:
僕の36年来のビジネスパートナーですがね。
平田毅:
小杉さんが、このニューヨークとロスの海外レコーディングを敢行する訳ですけども、最初はどうやって出会われたんですか。
達郎氏:
最初はレコード会社に・・・人にくっついていったら、たまたま彼がいて。
紹介されたんですけど。
それが76年1月なんですよね。
76年4月にシュガーベイブ解散するんですが、その解散ライブの荻窪ロフトというライブハウスで解散ライブやるんですが、その時に小杉さんとこにある人が売り込んできて。
それは大貫さんを売り込みにきたんです。
シュガー・ベイブの解散ライブでね。
ところが彼は男性ボーカルに興味がある人なので、男のボーカルがいいって。
それで僕、彼のところと契約するんですけど。
平田毅:
偶然ですか・・・
達郎氏:
偶然ですね。
ほとんど偶然です。
人生、偶然多いですよ!
あの時、タラレバですよね。
あの時、あの人と逢ってなかったらとか。
だから僕、よく、そういう若い人には”人間は人生に3回チャンスがあるから”(笑)
そのチャンスが活かせたり、活かせなかったりね、そういう事があるわけでしょ。
例えば凄く自分にとっての重要な仕事、例えば編曲の仕事とか作曲の仕事とか、チャンスがある時に。それが例えば書けなかったとかね、そういう事もありますし。
オリンピックなんかでもそうじゃないですか。
あの晴れ舞台で世界新記録出すような人もいるし、プレッシャーに負ける人もいる。
そういうものって、その人の意思だけじゃ、どうにもなんない事がありますよね。
平田毅:
ただ、そのたまたま出会った男性ボーカルにニューヨークとロスの海外レコーディングをしようと・・
達郎氏:
ふふふ(笑)
平田毅:
賭けようと思った・・小杉さんは何て語ってらっしゃいますか?
達郎氏:
あんまり深いこと考えてなかったのね。
ただ小杉さんはニューヨークに留学2年してたので。
その前には音楽出版社にアレして、アラン・オデイとの付き合いは南沙織さんとのレコーディングでねロサンゼルスの時に南沙織のレコーディングで彼がコーディネーターで行ってたんですよね。
その時にアランが、例えばコーラスのアレをやってくれるとか・・・
平田毅:
アラン・オデイとは、もうサーカスタウンの時には会ってらっしゃるんですか。
達郎氏:
もう既に知ってます。
ちょうどアラン・オデイが「アンダーカバー・エンジェル(Undercover Angel)」を出すのが76年なんですね全米No.1の。
だから完全にアラン・オデイが僕の作詞の英語の詩のパートナーは、小杉さんの関係なんです。
平田毅:
この海外レコ―ディングは、いろんな面で達郎さんにとって大きな出来事ですよね。
達郎氏:
そうですね。
海外レコ―ディングやりたいって、こっちが言ったのも、もうそれは夢想っていうか、妄想ですよね。
平田毅:
ご自身で仰ったんですか?
達郎氏:
そうです。
でも、どこも取りあってくんなかったんですね。
小杉さん一人が、直接チャーリー・カレロに、直接直談判に行って、そいで決めてきたんですよ。
でもそれは2年間の留学生活とか、具体的にロサンゼルスでも、ちゃんと仕事してた、それが背景が無ければ出来ませんよね。
音楽出版社で働いてたので、ノウハウ持ってたってこと。
あと、予算管理までのノウハウをちゃんと持ってたので。
ほんとは全部ニューヨークで録音したかったんですけど、とても予算が間に合わないので、ロサンゼルスに自分の知り合いがいるから・・それで・・・
予算の配分はね、A面、B面で7:3くらいですね。
平田毅:
A面、B面で、ニューヨークとロスでテイストがちょっと違った感じで面白くなりましたよね。
達郎氏:
そうですね。
企画的には成功でしたよね。ええ。
ロスは凄くフレンドリーで、何でも言えばやってくれましたし。
あと、コーラスがジェリー・イエスター(Jerry Yester )とかね・・もと・・ケニー・アルトマン(Kenny Altman)って僕の当時すごい好きだったベーシストが偶然やってきてくれたりしたので。
それはラッキーでしたよね(笑)
平田毅:
じゃ、その「サーカスタウン」から一曲。
達郎氏:
これは、もともとシュガー・ベイブのレパートリーなんですけどシュガー・ベイブでレコーディングされなくて、これをニューヨークへ持っていったら、すごいトラック入りになったんですが。
いまだに・・・・これを聴くとあの時のニューヨークの夏の空気を想いだします。
♪ WINDY LADY
◎ SPACY (1977)
平田毅:
続いて二作目のアルバム、SPACYになるわけですね。
このSPACY は二作目でニューヨークやロスの経験が活きた・・・
達郎氏:
はい。
平田毅:
自分でスタジオミュージシャンをアレンジして・・
達郎氏:
そうですね。
僕、ドラム以外は全部独学なので、スコア・リーディングとかそういうものが、ちゃんとした勉強してなかったんですけど。
ニューヨークで5曲レコーディングしたんですけど、そのスコアをねチャーリー・カレロがくれたんですよね、僕に全部。
これがね、とにかくそういう教則本とか全く違って実践的なスコアでしょ。
全然違うんですよ、だから(笑)
それまで見てるものと。
これはやっぱり使わない手はないと思って。
それで徹底的に研究してね、それでミュージシャン集めて、スコア書いて作ったのがSPACYなんですけどね。
平田毅:
ご自身とすると、ソロアルバム出して、しかもそれがニューヨークやロス行って。
今度は戻ってきて自分で作る2作目ですから、よりこう自由に・・・
達郎氏:
そうですね。
でもやっぱりニューヨーク行って一番勉強になったは、そうしたシンガーとしたものじゃなくて、アレンジャー、アレンジメントとか、演奏の方式とか、そういうものですね。
もっと凄く具体的でスタジオの中の具体的な作業・・・
が一番やっぱりインパクトが強かったですよね。
そういうものに基づいたアルバムなので、割とこうスタジオチックなアレですけど。
でもメンバーの選定とかは非常に妄想的で、村上ポンタさんと、細野晴臣さんと、松木恒秀さんと、佐藤博さんと。
この4リズムでレコーディングって、右にも左にもこのSPACYしかないんですよ。
あとは、その4人が集まってやってる演奏って一度も無いですね。
平田毅:
自分とすると、2作目で自分の好きなメンバーで音楽を、というふうに・・・
当時の細野さんですものね。
達郎氏:
そうですね。
だけどほんとに、それはそれでね日本人の、その時の僕の一番のベストメンバーってのを集めるから、そこの緊張感っていうかね、それはね、なかなか得難いものがあって。
平田毅:
そこと対決するための曲も書かなくちゃいけませんよね。
達郎氏:
ただ要するに、そんなに予算が無いので。
やっぱりパターンミュージックっていうか、早く上がる曲じゃないとダメなんですよ。
複雑な構成ができないから。
そうすと、こう、その当時の16ビート・ミュージックっていうかな、ダンス・ミュージックっていうか、いわゆるパターンミュージックっていう延々と続くやつが多いから。
そういうような形式で・・
それも偶然ですよね。
もっとだからプログレみたいな、複雑な構成でやる時間があったら、それでもやってるかもしれないし。
シュガー・ベイブなんかもう、いじりまくって、リズムチェンジとかいじりまくってアレしたんですけど(笑)
そういうのも一転してSPACYの、例えばLOVE SPACEとかSOLID SLIDERみたいに、もうほんとにパターンで。
すぐ上がるヤツ。
平田毅:
でも意外と尖った曲が多いなという印象
達郎氏:
まぁ、そうですよ、だって二十・・・まだ四ですよ!
そりゃもう、それ恨んでますからね(笑)
平田毅:
今、ご自身のライブでSOLID SLIDERとかなさっても古くなく、今の年齢にピタッとハマった演奏になってますけど。
達郎氏:
ま、あの、パターンミュージックですからね。
ジャズと同じですよね。だからね。
メロディーラインとか、そういうものじゃなくて、一つのトーンなので。
いってみれば、それはアメリカ音楽の伝統なので。
基本的に、本質的な色彩感は古くなんないですよ。
平田毅:
じゃあお聴き頂きましょうか。
達郎氏:
SPACYの一曲目ですがLOVE SPACE。
♪ LOVE SPACE
平田毅:
やっぱ、かっこいいですよね。
達郎氏:
そうですか(笑)
平田毅:
凄くよく歌が聴こえてというね。
演奏もいいんですけども、演奏と歌の感じが良く出来てるんじゃないかなと。
達郎氏:
歌、よく聴いてくれますよね。このレベルのミュージシャンですからやっぱり。
このクラスのね。
◎ GO AHEAD! (1978)
平田毅:
さて続きまして今度は78年GO AHEAD!ですけども。
このアルバム実はすごく好きだって方もいるんですよね。
達郎氏:
そうですか。
へへへ(笑)
平田毅:
思いが深く・・好きだって方・・
達郎氏:
作家主義っていうか、ごった煮のアルバムですからね。
バリエーションがものすごく広いので。
BOMBERとTHIS COULD BE THE NIGHTが同じアルバムに入れるやつはいませんからね。
平田毅:
何と言ってもLET’S DANCE BABYも入ったりMONDAY BLUEもあったり。
潮騒があったりPAPER DOLLがあったりという。
達郎氏:
これは、それで16トラックなんですよね。
だから、MOONGLOW から24トラックになるので。
16トラックって凄いいい音するんですよ。
それがデジタルの時代になっても、きちっとやっぱり、キックというかバスドラムのアレとかね、ギターの芯とかがね、きちっと出るのね。
それはやっぱりアナログレコーディングのね、しかも16トラックの音なんですよね。
平田毅:
SPACYは意外と売る上げ的には厳しかったという・・
達郎氏:
凄く厳しかったです。
凄い内省的ですもん(笑)
だけどもう、あの頃は日本のフォークとかロックとかニューミュージックとか言ったって、そんなシングルを売ろうとか、そんな可能性すら無かった。
演奏の場ですら確保できないし。
テレビは、なんか・・・
僕テレビ出たかったんですけど、出られなかったんです!
出してもらえなかった(笑)
そういう時代でしたから。
平田毅:
この頃ってユーミンがデビューしたり、吉田美奈子さんがアルバム作ったりと、そんな時代ですよね。
達郎氏:
でも、それとて、いわゆる日本の既成の歌謡曲のラインではないので。
例えばプロダクションとかね、そういうようなものがないと。テレビブッキングとかね。
今と同じですよね。
78年になると、それがいよいよ、ツイスト、サザン、原田真二、竹内まりや・・・
そういう、比較的にロックとかフォークとかいうものをメジャーのマーケットにのっけて、要するに流通にのっけていくぞって、そういう流れが基本的に出来てきたのでね。
そうなるともう、こっちはダメだなっていう。
平田毅:
あっち側で、これやっちゃズルイよみたいな感じ
達郎氏:
まぁ、そうですね。
それでもうテレビメディアを使って始まるわけですから、どうしようもないですよね。
それでレコード大賞新人賞とか、そういう世界でしょ。
もうそれは、全然相手にならないから。
ま、そろそろ僕らの時代もね、あれかなと。
ソロで、こうしたアルバム出すような時代は出来なくなるんじゃないかと思ったから。
これから先は、そうした裏方でやっていこうかなって思ったので。
じゃ最後なんだったら、やれること全部叩きこんで止めようって(笑)。
平田毅:
そして、この転機になったアルバムでもありますよね。
BOMBER、大阪からヒット。
達郎氏:
それが何故か大阪のディスコでBOMBERって曲がヒットしてるらしいっていうね。
そういうのがあって、79年に・・・78年の暮れに出したアルバムですけど、79年になってそれを確認しに大阪へ行くと、ほんとにそうなんですよ(笑)
BOMBERで踊ってるんですよ(笑)
平田毅:
ディスコ行ったんですか?
達郎氏:
行きました。
プロモーションずいぶんやりましたから。
なんだこれ!と思ってね。
それで1979年の4月かなんかに大阪でライブやるんですけど、それがもう、凄かったんですよ。
お客の熱気っていうか。
それまで見たことが無い(笑)
それまでのお客さんって洋楽から、ちょっとこう邦楽にシフトして、邦楽聴こうと。
日本のフォーク、ロックみたいなね。
ちょっとオタッキーっていうか、あと評論家チックな人、マニアチックな人、そういう人が多かったけど、もう大阪のディスコに、アメリカ村とかそういう所で、いわゆる丘サーファーとかね、そういう人達だから、快感なんですよね、完全に。プレジャーなわけ(笑)
平田毅:
そこで、ディスコでボンバーをかけた人は偉い人ですね!
達郎氏:
凄いですね。
平田毅:
僕ら達郎ファンからすると、ほんとにこの人がいたお陰でと、言いたいくらいですね(笑)
達郎氏:
この時代はほんとに、洋楽のテイストで評価されるべき邦楽ってのを、みんな探してた時代なんですよね。
ディスコってのは洋楽ばっかりじゃないですか。
そこでかけられる邦楽がないのか、とか。
そういう事を・・マーケットが広がってたから。
そういう事なんでしょうね。
平田毅:
そこに丁度出てきた。
達郎氏:
丁度はまったんでしようね(笑)。
ボンバーで踊れるってのがね(笑)
僕なんかに言わせると、ストレインジで躍らせる曲でも何でもないから。
なんだけど、サウンドとか、そういうものの近似値を求めてたというか、そんな時代だったんでしょうね。
きっとね。
平田毅:
じゃあ聴いて頂きましょうか。
♪ BOMBER
◎ クラッカー/LET’S DANCE BABY
平田毅:
このGO AHEAD! から次のアルバムに行く前に一つだけ、どうしても聞いておきたいのは、LET’S DANCE BABYはライブでも皆さん、クラッカー、パンと鳴らしますよね。
あのライブでクラッカーを鳴らすとは、一体いつから始まったんですか?
達郎氏:
1981年か2年の六本木のピット・インで。
平田毅:
かなり早いですね。
達郎氏:
早いです。
それで、ある日二人のお客さんが、いきなりクラッカーで、それを鳴らしたんですよ。
そこから、全国に波及したんです。
2、3年で、瞬く間に。
平田毅:
私も見た頃には、クラッカー鳴ってましたね(笑)
達郎氏:
あれよ、あれよと言う間ですね。
ノリが良かった(笑)
あれはだから、もともと2番の頭の間奏後で”心臓に指鉄砲”なんで、”心臓に パンッ 指鉄砲”ってやったんですよ。
あれはピストルですね、おもちゃのピストル。
火薬の。
平田毅:
レコーディングされてる中は、火薬でパンと鳴るもので、クラッカーではない。
達郎氏:
クラッカーではないです。
あれは、レコード会社の階段でパンと鳴らして、マイクで録ったんですよ(笑)
平田毅:
それを挟み込んだんですね。
面白いですね。
達郎氏:
そうです。
ちょっとしたアイデアだったんですけど、SEがとにかく好きだったのでね。
GO AHEAD! ってSEの嵐じゃないですか。
SEオタクなんですよ、僕。
だからそういう事があってね・・・
平田毅:
そういう達郎さんの遊び心にファンの人が応えてくれてライブでやってくれて
達郎氏:
ま、いろんな方々がいらっしゃって、みんなそういうネタって持ってるじゃないですか。
予定調和ですね、要するに。
平田毅:
この前のライブでも”ガラパゴスだけどはずせなくなった”って仰ってましたね。
達郎氏:
ははは(笑)
あれが無ければ、クラッカーが無ければ続いてないですよね。
そんな派手な曲でもないし。
平田毅:
LET’S DANCE BABYのお話をすると、吉岡治さん、いい詩ですよね。
達郎氏:
いやぁ、すばらしいですよね。
これ、詩先なんですよ。
平田毅:
キングトーンズにお書きになったという、もともとはね。
達郎氏:
そうです。
◎ MOONGLOW(1979),RIDE ON TIME(1980)
平田毅:
MOONGLOWは79年、RIDE ON TIMEは80年
70年代、80年代は、とても達郎さんにとって音楽状況良くなってきて幸せな時代だったと仰ってましたけど。
達郎氏:
すべてはボンバーから変わりましたね(笑)。
平田毅:
ただ達郎さんだけではなくて、歌謡曲、それから少し歌謡曲のポップなものが、ほんとに日本のポップスがみんな流れとして出来てきた時代じゃないですか。
達郎氏:
ほんとに、サザン、ツイスト、竹内まりや、ああいうの無しには僕自身のブレークもないですからね。
マーケットが一挙に広がったっていうか、それが・・・要するにそれまでの歌謡曲とは違うニーズっていうか。
あとはいつも言ってるのがウォークマンとか、カーステレオとかハードウェアがまた発展とか、いろんなファクターが合わさって。
それでオイルショックがちょっと良くなったとか、そういうのもありますよね。
平田毅:
今の音楽状況にずっと繋がっている、だいたいここ30年くらいで転換点ですよね。
達郎氏:
明確な日本の音楽マーケットという意味では、そうですね。
平田毅:
あと時代状況で言いますと、私がオンエアしたのが81年。
青森に達郎さんがキャンペーンでお越しになった訳ですけど。
ニューミュージック、ポップス系の人はキャンペーンって、あまりなさらなかったんじゃないですか?
そういう意味じゃ、時代状況もあれですけど、達郎さんご自身のね、そういう形で新しいビジネスモデルって
いったらあれだけど・・・
達郎氏:
ぼくの場合は中央のメディアが全く相手にしてくれなかったので。
なので地方へ出てったんですよね。
で、FMはMHKは特にリクエストアワーって6時台ってのがあって、そこは割と書くローカルの平田さんみたいなくらいの年代の、僕と同年代の人が自由裁量でレコードかけられたから、そういうとこへ入っていって。
平田毅:
あの時、達郎さん仰って印象に残ってるのは、やっぱり自分の音楽をちゃんと録音できたり、作れたりする環境をつくりたいと。
スタジオミュージシャンの人と良い関係を作るには、やっぱりレコードが売れなきゃダメなんだと。
そのためには、ちゃんとこういう事をしなきゃダメなんだと、仰っててね。
私、NHKに入った新入、社会人になって一年、二年とこだったので”あぁそうか、そういう事って社会人の人考えるんだ”って思った記憶があってね(笑)
妙にこう・・・
ただ、僕は22、達郎さんはあの時たぶん26,7ですけど。
その頃でも、そういう風に考えてミュージックをやってたっていうのは、あんまりないんじゃないかなって。
達郎氏:
だから僕は最終的には、そういうこう何て言うのかな、裏方になるための勉強だと思ってやってましたからね。
だからレコード売るっていうのが、どういうファクターがあるのか。
流通っていうのは、どういうアレがあるのか。
自分の体使えば一番早いから(笑)
自分がそれを体感で、経験する事は無駄じゃないと思ってね。
結局そういう作業が、自分のブレークに役だったんですけどね。
それもラッキーだったですけど。
平田毅:
ある日裏方になってしまうかもしれないなっていう事もあった・・・
達郎氏:
だから、どっちにしろ、そんなに長くはやれないなっていう自意識はあったんですよね。
平田毅:
実際問題、ああやってキャンペーンなさっていて、なんとなくそういうのは、演歌の人は随分やってましたけど、カッコ悪いなとか言われる中で、そういうのなさって。
でも拘るべきは音の質とか、音楽の質の方に拘ってると。
僕はカッコイイ方だな思って。
よくほら、今よく若い人も好きな事したいって仰いますよね。
でも好きな事するためには、何かこう自分で戦略立ててやらないと。
もしくは何かをこう、失うものがあっても獲得するものをつかもうという・・
達郎氏:
まぁ、通俗的が言葉ですけど”心は売っても魂は売らない”ってやつですよね。
心を売るとはどういう事、魂を売るとはどういう事かは確認しなきゃわかんない訳ですよね(笑)!
平田毅:
人それぞれですけどね・・・
達郎氏:
やっぱりレコード会社のスタッフにね、レコード会社のスタッフっていうか、そういう出版会社のスタッフに例えばもうワンテイク録りたいと。
もうワンテイク録るには、あなたの売上じゃダメなんだと。
ワンテイク録るんだったら、もっと売れと。
それは理屈だなぁと思ってね。
平田毅:
そういう風に言われるわけですか・・・
達郎氏:
そうです。
諸先輩方の、そういう事が言ってくれる事があって。
でも悪い事ばっかりじゃなくて、こうやってヒットが出て次に新作作りたいとかね。
例えばオン・ザ・ストリート・コーナーみたいにひとりアカペラみたいな道楽みたいなもんでしょ。
どんどん突っ走るわけですよ、前にね。
オン・ザ・ストリート・コーナーできてるのにその曲はやらないで、もう違う新しい曲をステージにかけてくると、僕の仲のいい音楽評論家の方が・・・もう亡くなりましたけど、『山下君、やっぱりねレコードに入ってる曲を客は聴きたいと思うよ』ってね。
そこをこう、ストップかけてくれる人がいる訳ですよ。
そういう諸先輩方がたくさんいて。
だから、そういう歌謡マターとか全然悪いことばかりじゃなくて、若い暴走するね(笑)精神をストップさせてくれたり。
現実っていうものを、きちっと見せてくれたりと、そういうこう循環っていうのがね、いわゆる芸能界のスタ―システムだとなかなか本人まで伝わらないじゃないですか。
長いことライブやってても、結局、そういうギターテクニシャンとか大道具の人達とか直接僕話、初めからできたので。
下手すると、アイドルシンガーみたいだと絶対に直接話させてくれないんですよ。
証明のスタッフでも何でもね。
僕らはだから直接ディスカッションできたから、それがライブにとって物凄くプラスになって。
直ですぐに変えられるから。
平田毅:
でも、ちょっとしたディテールに拘りたい時にも何とかなりますもんね。
達郎氏:
なりますよ。
だから、右歩くとか左歩くとか、即変えられるし、そういうのがね、やっぱり今だから、それすっごい重要と思ってるけど。
初めは、こんなもんだと思ってたんですよ。
でも実はそれは非常にレアなことだという事が判ってから、それはだから本当にスタッフに感謝してますけどね。
平田毅:
はい。
今度はアラン・オデイさんの曲をご紹介頂きたいと思います。
達郎氏:
アラン・オデイはさきほど申し上げたように、僕の詩の、英語詩書く時のパートナーなんですが。
一番最初に作った、最初期に作った一曲で、具体的に僕が彼の詩を歌って、ちゃんとレコードにした最初の作品なんですけど。
YOUR EYESというFOR YOUの一番最後に入ってる曲で。
ま、彼はとっても日本人的なメンタリティがある人なんですよ。
奥さんも日本人なんで。
そういうこう、ロマンチストっていうか、もう喜寿なんですけどね。
彼の詩はほんとに、そういう意味ではラブソングにしてもロマンチシズムにあふれたアレなので。
すごく歌っていて・・・
僕が歌った詩は難しい言葉、あんまり使わなくて。
非常に判りやすいね、自分が歌っても理解ができる詩の世界なので。
英語でもちゃんとこう、感情表現や移入ができるとかね。
そういう意味ではあらゆる意味でアランってのは、なかなか得難い、これもほんとににねラッキーだったですけど。
100%英語詩はアランでできてますから、30年間。
ほんとに有り難いですね。
平田毅:
じゃあ82年、FOR YOUからアラン・オデイさんの作詞でYOUR EYES
♪ YOUR EYES
~ 前半終わり ~
コメント
こんにちは。
いつもご苦労さまです。
前にも書きましたけど…、この番組の楽曲の音が去年の「三昧」時より、いいです。どうしてかわかりませんが。
16日もどのような話が聞けるのか、楽しみです。
大瀧詠一さん、ゲストで出てくれないかな。今年は新春放談なかったので。
いつも通りさん、こんにちは。
サウンドクリエーターズファイル第2回ゲストは鈴木おさむさんのようですね。
第3回は・・・・。