山下達郎さん サンデーソングブック 2019年3月31日『内田正人さん追悼キングトーンズ特集』(#1381)
今年度最後の日曜日となりました。明日から新年度が始まります。
当ブログの管理人こと9thNUTSも、1年間の横浜生活を経て明日から長崎市民に戻ります。一日早く入った長崎市内、満開の桜が迎えてくれました。
今日のサンソン、キングトーンズの特集でしたが達郎さんがオンエアを遅らせてまで企画・編集した理由がわかりました。
ということで、このブログでは山下達郎さんのサンデーソングブックのほんの一部をテキスト化しています。
誤字脱字は、ご容赦くださいませ。
◎ 冒頭
達郎氏:
3月最後の日でございます。
旧年度の終わりです。
明日4月1日から新年度になります。
平成もあと、ひと月で終わるというですね・・
区切りの、あれでございますが。
私は、そんなの全然関係なく(笑)
また、曲書いてシコシコやっております。
今日は、ですので前倒しで録っておりますので。
お天気のお話しとか申し上げられませんけれども。
6月ごろからツアーが始まりますので。
それまでにですね、オーダーされてる曲を仕上げてしまわなければ、ならないので。
たいへんでございますけれども、がんばってやっております。
1381回目のサンデーソングブックでございます。
もちろん新年度からも引き続き、よろしくお願いします。
26年と半年経ちました。
27周年あと半年でございます。
がんばっていきたいと思います(笑)
引き続きよろしくお願いします(笑)
で、先々週からずっと申し上げておりますが。
キングトーンズの内田正人さんがお亡くなりになりましたので。
内田正人さんの追悼を兼ねまして、キングトーンズの特集をですね・・・
はじめは軽い気持ちで、いろいろと始めようと思ったんですけども。
いろいろと調べれば調べるほど・・
なんか深いものが出てきまして・・
とにかく特集が遅すぎます!!
というか20年前にやっておくべきだった特集でございます。
ほとんどの関係者が亡くなっておりますし・・
というか、語るべきことが多すぎます!
いわゆる日本の歌謡曲ではない洋楽志向の・・
それゆえサブカルチャーの立場を余儀なくされるというか・・
そういうようなスタイルでありまして。
ですので、そういうことを語りつつ、やらないとキングトーンズの本当の意味でですね、日本での位置というのが、はっきりしません。
いわゆる一般メディアがアレするような、ドゥ・ワップだとかグッドナイトベイビーとか、そういうものでは語れない非常に深いものがありましてですね・・・
えぇ・・ここ2週間ほど資料集めたり、人に教えを請うたりしてですね・・
やりまして。
今週、来週、年度超えますけれも(笑)
2週間、内田正人さん追悼キングトーンズ特集、やってみたいと思います。
えぇ・・がんばってみたいと思います(笑)
それにしても、むずかしい(笑)
で、年度変わりでございますので、いつも年度変わりにはこの曲をかけております。
広島県尾道市のK.Kさん。
先日いただきましたが。
『3月14日は、うちの3人年子の真ん中Rが、無事第一志望校に合格しました。
ありがとうございます。』
という・・
よかったですね。
Kさんは3月24日の誕生日。
おめでたいですね。
『3人年子なので、次はAが控えています。
また時期が近くなりましたら、是非よろしくお願いします。』
私でよければですね・・
いくらでも(笑)
お励ましいたします。
♪ 明日の私/竹内まりや
~ CM ~
◎ キングトーンズ
達郎氏:
キングトーンズのリードボーカリスト内田正人さんが、お亡くなりになりましたので、今週、来週2週間かけて内田正人さん追悼でザ・キングトーンズ特集をやろうと思います。
内田正人さんは1936年生まれですからロイ・オービソンと同じ年ですね。
遅いデビューでございます。
30過ぎたレコードデビューの形でございますけれども。
もともと1958年に、プラターズに憧れまして、5人組のグループを結成いたしまして。
プラターズは女性入りの5人組でございます。
その当時はファイブ・トーンズと名乗っていましたけれでも。
その後4人組となり、女性が抜けましてですね。
キングトーンズという名前になりまして。
主に米軍キャンプをまわって・・
60年代はですね・・
活動をしておりました。
従いまして、その中で、米軍キャンプまわりの中で、プラターズ・スタイルのボーカルスタイルでいきましたので。
どちらかというとリズム&ブルース寄りの、そうしたスタイルでやっておりました。
結果、同時代のボーカルグループ、いわゆる歌謡曲サイドのボーカルグループ・・
ま、ムード歌謡とか、そういうものですけども。
そういうムード歌謡のボーカルグループというのは、それ以前のですねジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴとかそういうような色が強いんですけども。
そいうものとは違うリズム&ブルースのテイストを身に着けた、違う色を身に着ける・・
そうしたグループとして、だんだん業界で知られるようになりまして。
60年代の頭はですね、レコーディングのバックコーラスとして、しばしばクレジットされるようになってまいります。
◎ 藤木孝さん、田代みどりさん
達郎氏:
そんな時代の作品からですね、有名どころを、二つほど
まずは藤木孝さん。
ミスター・ツイストですね。
藤木孝さんは1961年のテイチクからのシングル「小さい悪魔」
ニースセダカの「リトル・デビル」
これのアレンジが宮川泰さん。
翌年の62年、テイチクから田代みどりさん。
田代みどりさんの、これはポール・ピーターソンのヒットですね。
「じらさないでね」洋楽のタイトルはあとで調べます。
それのカバー。
どちらもレコードに「コーラス キングトーンズ」というクレジットが入っております。
♪ 小さい悪魔/藤木孝
♪ 彼氏の気持ちはワークワク (She Can’t Find Her Keys)/田代みどり
◎ 相当困難な時代・・・
達郎氏:
1960年代の国内のいわゆるドメスティック・シーンですが、ロックンロール以前の洋楽ジャンルでですね、ジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴといった、そういう要素がまだまだ強い影響力を持ってまして。
大多数のリスナーもまた、既存のそうした歌謡サウンドってものにシンパシーを持ってた時代であります。
レコード会社のそうした音楽制作スタッフはもとより、作曲、編曲、演奏者からレコーディング・エンジニアに至るまで、当時最先端だったロックンロールとかR&Bに関する知識情報ってのは、圧倒的に不足しておりまして。
そこから生じる技術的問題のために、英米と同じような音像をレコード中に再現するというのは、まだ相当困難な時代でありまして。
したがってこうした和製ポップスからグループサウンズに至るまで、当時の我々のようなですね、中高生の洋楽リスナーが下す音楽的評価というものはですね、あくまで近似値としての洋楽的なテイスト・・その割合の大小で・・
ようするに洋楽っぽいなっていう近似値ですね・・
あくまで本家は洋楽タッチのオリジナルでありまして。
ロックンロール志向の国内音楽ってのは、どこまで行っても近似値でしかない時代であります。
今でも、そういう要素は多大にありますが。
◎ グッド・ナイト・ベイビー
達郎氏:
そんな60年代でも、ずぐれた近似値を提供された方々がたくさんおられまして。
たとえば加山雄三さんでありますとか、作曲家では宮川泰さん、編曲もやっておられますけれども。
あとは寺内タケシさんはじめインスツルメンタルですね・・
そして、そのあとの一連のグループサウンズ、たくさんおられます。
そんな中に1969年にキングトーンズというボーカルグループがじわじわと日本でヒットを始めまして。
それまで聞いたことのない近似値と言いましょうかですね・・・
米軍キャンプまわりで吸収したアメリカのテイストが日本の既成の音楽マーケットからは隔離された純粋培養の存在としてユニークな作品を生み出したといえますが。
はじめ、リリースされた時は、それほどなかったですけど、じわじわとヒットしまして。
68年にリリースされたんですけど、年を超えて69年あたりから大ヒットをしました。
オリコンの2位まで上がる大ヒットになります。
出世作であります「グッド・ナイト・ベイビー」
♪ グッド・ナイト・ベイビー/ザ・キングトーンズ
この曲の誕生までは非常に紆余曲折があったという話であります。
日本グラモフォン、後のポリドール、そして今のユニバーサルのですね・・元ですけども。
ここと専属契約したんですけども、邦楽のセクションはどこも手をあげませんでした。
で、結局洋楽のセクションで製作することになりまして。
でもこのグループの特徴を生かした作詞作曲をしようとする人が誰も出てこなかったからなんですね。
しょうがないので、当時の洋楽のA&Rだった松村孝司さん、この方「コーヒー・ルンバ」なんかをヒットさせた方ですけども。
この方が”むつ・ひろし”というペンネームで書いたのが、このグッドナイトベイビーです。
作詞を手掛けた大日方俊子さんというのも、そうした製作セクションでありまして。
このかた、”ひろ・まなみ”というペンネームで作詞をしまして。
この”むつ・ひろし””ひろ・まなみ”というコンビはですね、のちに和田アキ子さんのヒット曲「どしゃぶりの雨の中で」という作品を書くことになります。
それで、ちょっとイメージしていただけると思いますけれども。
◎ 捨てられた仔犬のように
達郎氏:
当時は、私は高校1年か2年にかけての時代だったんですけども。
どちらかというと洋楽ファンでも、少しマニアックなですね、あんまりヒット曲に目を向けないですね(笑)
マニアックな曲が好きな仲間内ではですね、このA面の「グッド・ナイト・ベイビー」よりも、とにかくB面の「捨てられた仔犬のように」という・・
これはキングトーンズのメンバーのベースシンガーの加生スミオさんが作詞、作曲そしてアレンジにもクレジットされております。
こちらの、このサウンドがですね当時の日本の、そうしたボーカルグループ・ファンにとって非常にリズム&ブルース的って言いましょうかですね・・・
このグループ、すごいよ!って言っていた、そのB面。
♪ 捨てられた仔犬のように/ザ・キングトーンズ
1968年の日本のそうした歌謡スタジオ・シーンではですね・・
リズム&ブルースのトラックを構築することなど、ほぼ不可能でありました。
お聴きいただきますと、オリジナル・ソングであるこのB面の「捨てられた仔犬のように」の方が「グッド・ナイト・ベイビー」よりも、結果メロディーの構造があか抜けてる部分がありますけれども。
それでも、ブラスのアレンジなどはですね、一時代前のビッグバンドの手法でありまして、あれを例えばメンフィス・ホーンのように3管でやったらもっと雰囲気が出たのにって・・
それは私がずっと後になってから、そう思っただけで。
当時はただ漠然としたそうした疑問符でしかありませんでした。
いろいろな内田さんご自身のインタビューなんかを拝見しますとですね、内田さんは当初レコードデビューをいやがったということをおっしゃっております。
そこにはですね、なんか・・どんなに洋楽的な志向とか発想をもっていも、当時の状況からは安易にムード歌謡の方向にですね、持っていかれるってことを、よくご存じだったと、いうことですね。
そういう部分で自分のスタイルが日本では、ほんとに理解されないという、そういうようなことを直感してたようにも感じられます。
その後も、自らのそうしたプラターズのスタイルに対して、ある種の”かたくなさ”というか、そういうものが見え隠れします。
特に歌謡曲に賑やかさに非常に警戒心の強い方に思いました。
それはとりもなおさずリズム&ブルースに対する認識が正確だという・・
時代的に日本の歌謡シーンと折合いの悪い活動を余儀なくされるんじゃないかと、そういうようなことだと思います。
インタビューの中にですね、「グッド・ナイト・ベイビー」に対するコメントがありまして・・・
”あれは、難しい曲で「涙こらえて」のメロディーの部分は演歌でしょ。
あれを、どうすれば演歌じゃなく、歌えるかっていうんで、そこでファルセットが出てきたんだ”と・・・
そういうメロディーに対する感性みたいなものが、すごく敏感だった、そういう方だと思います。
◎ どうしても
達郎氏:
今日と来週のキングトーンズ特集で、どうしても申し上げなきゃいけないことがありましてですね。
無駄と知りつつ申し上げますけれども・・
キングトーンズはドゥ・ワップ・グループじゃありません!
彼らの音楽的原点であるプラターズの全盛期の活動というのは、厳密にはドゥ・ワップ・グループと定義されていませんでした。
ただ、今はアメリカの文化もそうとうアバウトになっちゃったんで、みんな一緒くたにされてしまった結果、そうなりました。
ましてドゥ・ワップはおろかですねバーバーショップ、オープン・ハーモニー、ジュビリー・スタイル、カルテット・スタイル
そうしたコーラススタイルに関する明確な音楽的説明が今やまったくなされなくなった・・
今の時代の中ですとキングトーンズは結果的に近似値としてのドゥ・ワップというカテゴライズでしか日本では選択の余地がなかったので、ドゥ・ワップということになります。
蛇足ですけども、鈴木雅之と山下達郎以前には日本のメディアにドゥ・ワップという単語はありませんでした!
ドゥ・ワップ自体が60年代以後の用語で、造語でありますので。
キングトーンズの皆さんが自分達がドゥ・ワップ・スタイルだと意識したことは、それは後付けであります。
これだけは、言っとかなきゃなんない。
◎ ネット情報の虚報
達郎氏:
もうひとつですが、今、ウィキペディアとか、そういうデータを見てますと、キングトーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」は、アメリカATCOのレーベルから発売されましてですね、ビルボードのR&Bチャートで48位をとったという・・・
これは虚報です。
私の知り合いの、そうしたチャートのエキスパートに4人確認とりましたけれども、全員が否定しました。
R&Bチャートに入っておりませんし、もしくは全米チャートにも入っておりません。
ただひとつ・・・
キャッシュボックスの1965年の5月に最高114位という、このランキングが記録に残る唯一のものです。
上柴とおるさんから伺いました。
でも、それは今はもう、ほんとに検証することなしに、拡散するんですね、一般メディアがね。
で「グッド・ナイト・ベイビー」はビルボードR&Bチャートに入ったんだと・・そういう・・
嘘ですので。
だからと言って、彼らが別にステータスが傷つくとか、そんなこと全然ありません。
実力とは関係ない話なんですけど。
データは正確にやらないとダメだと・・
やっぱりネット時代のですね弊害があります。
長くなりました!
◎ オンリー・ユー、煙が眼にしみる
達郎氏:
「グッド・ナイト・ベイビー」のヒットがありましたのでファーストアルバムが69年に発売されまして。
セカンドアルバムがすぐ発売されます。
セカンドアルバムには、この方たちのアイドルでありますプラターズのナンバーが何曲か入っておりますので、こちらの方が本来のキングトーンズのスタイルとして受容できるものでありますね。
2曲続けて
1969年のセカンドアルバム「愛のノクターン」に入っております「オンリー・ユー」
そして「煙が眼にしみる」
♪ オンリー・ユー/ザ・キングトーンズ
♪ 煙が眼にしみる/ザ・キングトーンズ
要するに、内田さんは早すぎたんです、少しね・・
~ CM ~
◎来週
達郎氏:
来週は、年度超えますけれども(笑)
パート2でございます。
だいぶ理屈っぽいと思われるかもしれませんけれども、正確なキングトーンズのスタンスといいうのを・・
やっぱり誰かが言わなきゃなんないかなと(笑)
こういう使命感でやっております(笑)
◎ 愛のノクターン
達郎氏:
キングトーンズのアルバムを聴きますと、そうしたプラターズのカバー、それからオリジナルソングがあるんですけれども。
さきほど申し上げましたみたいに、メンバーの加生スミオさんのお作りになられる曲が、とっても当時はあか抜けてて。
いい曲が多くてですね。
この曲もそんないっこです。
1969年にこの曲シングル・カットされました。
♪ 愛のノクターン/ザ・キングトーンズ
所属していた日本グラモフォン、ポリドールはですねアトランティック持っておりましたのでスタックスのR&Bが出てきましたので、このセカンドアルバムは「ドック・オブ・ベイ」なんか入っておりまして・・
そうした、いわゆるR&Bのコンテンポラリーなものに対するアプローチと言いましょうかですね・・
この曲の内田さんの歌を聴いておりますと、関西ブルースの例えば・・そうだなぁ・・
大塚まさじさんとかですね・・・
ああいうテイストがちょっと見えてきます。
ので、ちょっと先行き過ぎたっていう感じがありますが。
◎ 暗い港のブルース
達郎氏:
キャンプ回りで培ったキャリアからですね、そうしたR&B的なものに対する認識が非常に正確だったという・・
それが時代的に日本の歌謡シーンとはですね、こう・・・なかなか折合いが悪いということがあります。
ムード歌謡全盛ですから。
ムード歌謡ってどちらかといえば、ラテンに近いジャンルの人たちが、そっちに行ったので。
ロックンロールとはちょっと違う世界なので。
それに関する、やっぱり冒頭にも申し上げましたみたいに、そうした警戒心というか、そういうものを、あおありになるんですけれども。
でも、レコード会社とか製作スタッフとすれば、そっちの方が、なんていうかヒットを生みやすいという。
そういうような典型なんですが。
1971年のシングル「暗い港のブルース」
これは、オリコンチャートで19位というですね・・
「グッド・ナイト・ベイビー」に次ぐチャート・アクションを見せた曲で。
これもキングトーンズの代表曲として認知されておりますけれども。
これはどちらかというと、ラテン・テイストで・・そういう解釈だと思います。
1971年のシングルであります。
♪ 暗い港のブルース/ザ・キングトーンズ
今までお聴きいただいた、僕が選曲したやつとはテイストが違うという感じに、お聴きになれると思いますけれども。
もともと1963年にですね、「グッド・ナイト・ベイビー」のアレンジをしていらっしゃっる早川博二さんという方がいらっしゃいまして。
この方、トランペット奏者で、自ら自分のモダン・プレイボーイズというバンドを作っております。
いわゆるジャズ系のバンドですけども。
そのインスツルメンタル曲がルーツでありまして。
これになかにし礼さんが歌詞をつけて、一回、フランク赤木さんという方が日本グラモフォンからシングル切ったんですけども。
それをなかにし礼さんが歌詞全面的に書き直してキングトーンズであらたにレコーディングしてヒットしたという。
このバージョンは、ちあきなおみさんとか藤圭子さんとかカバーがたくさんあります。
◎ はっきりとした意思
達郎氏:
お聴きを頂ければわかるように、歌唱力のある方ですので、その気になれば、こうした路線でもですね、かなりの水準まで行けるという方ですけども。
でも、内田さんのいろんなところでのインタビューを伺ってる限りですね、こうしたムード歌謡の路線には行きたくないという、はっきりとした意思がおありだったような感じがします。
日本で果たしてR&Bがやれるのかって・・ある種の諦観と言いましょうかですね。
そうした意思・・
それでも、当時は、・・現在でもですねキングトーンズとはムード歌謡コーラスの変形とみてるリスナーの方、非常に多いです。
和製フォーシーズンズなんていうのは、まだましな方でですね・・
「甲高い声」というような明後日の形容詞つけたりですね・・
今でもみられます。
自分が、日本のシーンではアウトサイダーだっていう、そうしたものがプラターズに対するより強い意思と申しましょうか・・
そういうのを生んでいかれたという感じが、すごくいたします。
そういう点でですね、私には痛いほど、そういうとこが理解できますし、自分に、ととってもそういうところが似てると(笑)
そういうことが思いましたので、こんな特集の形になってしまいました。
要するに早すぎたんですよね・・
◎ あたらしい企画
達郎氏:
1974年にですね、キングトーンズを若い作家が曲を提供して、それをキャラメルママがバックでアルバムを作ろうという、そういう企画がありました。
そのことについては、私、何度か語って参りました。
その企画に賛同して伊藤銀次と私と書いた曲が「ダウンタウン」はじめ、3曲なんですけども。
結果、その企画に賛同して曲書いたの、私と伊藤銀次と二人だったので(笑)
このコンビだけで、結局企画が流れてしまいまして。
もったいないんで「ダウンタウン」、自分のシュガーベイブの曲として発表することになったんですけども。
その企画が始まるというので、キングトーンズのライブに呼ばれましてですね。
ルイードというキングトーンズが所属していた事務所、小澤音楽事務所ですね、ここが造ったライブハウスなんですけども。
そののち、シャネルズなんかも、そこでやりますけれども。
そこにキングトーンズを観に行ったんですね。
そしたらその時にアルバム企画を立案した人たちがですね、その当時のトレンドであります、例えばスタイリスティックスみたいな、そうしたようなものを歌ったらどうかというようなサジェスチョンをしたそうなんです。
それを内田さんは、「あんまり僕は気が乗らないんだ、こういうの」って言って、そういうことをステージで話しながらですね「you are everything」歌ったんですけど(笑)
それがもう素晴らしかったんですよね(笑)
その話を大瀧さんにしましたら、とってもそれに関して興味を示しまして。
その後の大瀧さんのキングトーンズの起用ということになった・・
その一端にはなってるんじゃないかと思います。
実際、大瀧詠一さんはですね、男性ボーカルグループをとても欲していたんです。
女性はシンガーズ・スリーに出会いまして。
混声はシュガーベイブの我々がいましたけれども(笑)
純粋に男性コーラスっていうのは、すべて一時代前のスタイルしかいなかったので。
「ダウンタウン」の逸話というのを聞いて、キングトーンズの声をかけて、そこでようやく満足のいくスタイルのいるグループに出会えましてですね。
創作意欲もわいて、それがのちのキングトーンズのプロデュースへとつながっていくという、そういう流れだと思います。
大瀧さんが生きていればですね、最高に面白い話ができるんですけども・・・
大瀧さんはなぜかキングトーンズの話をですね、僕にあまり・・そいうかスタッフにあまり細かい話をされなかったんですよね。
なぜかわからないんですけど。
で、1975年に大瀧詠一さん「ナイアガラ・ムーン」というアルバムにキングトーンズを依頼しまして。
福生のスタジオまで呼んで、彼らのボーカルを録りまして。
「恋はメレンゲ」
のバックコーラスを頼んで。
最後にですね、アカペラで大瀧さんがリードボーカルでキングトーンズをバックに歌うという企画がでます。
ここから、キングトーンズが、そこから先のより若い聴衆にですねアピールする可能性が出てくるわけで・・・
この続きは、また来週。
パート2でお聴きをいただきたいと思います。
今日の最後は、その大瀧詠一さんの1975年のアルバム「ナイアガラ・ムーン」に入っております「いつも夢中」
♪ いつも夢中/大滝詠一
今週のオンエア曲
14:03 明日の私/竹内まりや
14:11 小さい悪魔/藤木孝
14:13 彼氏の気持ちはワークワク (She Can’t Find Her Keys)/田代みどり
14:16 グッド・ナイト・ベイビー/ザ・キングトーンズ
14:21 捨てられた仔犬のように/ザ・キングトーンズ
14:28 オンリー・ユー/ザ・キングトーンズ
14:31 煙が眼にしみる/ザ・キングトーンズ
14:36 愛のノクターン/ザ・キングトーンズ
14:41 暗い港のブルース/ザ・キングトーンズ
14:48 いつも夢中/大滝詠一
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